宇都宮市の中心に御座すのが宇都宮二荒山神社。
HPには「FUTAARAYAMA JINJA」とあるが、市民の殆どは「ふたあらさん」と呼んでいる。
子供の頃よく乗った地元の路線バスのアナウンスも「ふたあらさんじんじゃ前」だったと記憶。
今はどうなっているのだろうか?
HPには次のようにある。
昔は小寺峰(現在社殿のある臼ヶ峰の南方・馬場町交番付近)と臼ヶ峰の二峰を持った小高い荒山でした。山姿からして瓢型の墳墓であったと言う学者もいます。江戸時代に街の割替えが行われ、山は二分され真中に道路が設けられて、小寺峰は次第次第に削られ今日その原形を全く失い、標高約130mの臼ヶ峰のみが残っています。
これの気になる点は「荒山」という語。
こういう山の表現があったということだろうか?
ここでは触れていないが、二つの荒山で「二荒山」ということになるだろうか?
山の表現だとしたら「荒山」を(あらさん)と読むのは読みにくいから(ふたあらやま)と読むのが良い感じだと思う。
江戸時代の開発は、山を削って、池を埋めたのかもしれない。
今の正面の階段の所が、スパッと切ったようになっているのはその時に削ったからだったかも知れない。
二荒山神社は大変歴史が古く、第十代崇神天皇の御代に遡ります。当社は何度も火災にあい、近世に入ってからも天正13 年、安永2 年、天保3 年、更に明治維新の戊辰の役と4度もあって古い記録のほとんどが焼失しています。現在残っている社記には、第16 代仁徳天皇の御代に毛野国が上下の二国に分けられ、御祭神豊城入彦命の四世孫奈良別王が下毛野国の国造に任ぜられます。この時、祖神である豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祀ったのが始まりで、その後承和5 年(838)に現在の地、臼ケ峰に遷座されたと伝えられています。
前述の「小寺峰」が「荒尾崎」となっているのは何故だろう?
このあたり、大通りから南が一段低くなっている。
今のオリオン通りの曲師町辺りは、大きな池だったという。
そこに突き出た所を「荒尾崎」と呼んでいたという。
実は、ウチの境内にある文殊堂は、元々このあたりにあったものだ。
豊臣の時代に入る前、大通りから日野町通りにかけて「東勝寺」という大きな寺があった。
天台宗の寺院で宇都宮氏の菩提寺のひとつだったという。
Wiki先生は次のように仰る・・・
1262年(弘長2年)に宇都宮景綱によって当時の宇都宮城下の田川東岸に建立され、その後、田川西岸の荒尾崎に移され、現在の馬場通り三丁目から一番町に亘る広大な伽藍には釈迦堂、普賢堂、千手堂が建立された。
1585年(天正13年)12月に後北条氏の下野国侵略に加担した日光山僧兵の焼き討ちを受けて焼失、1597年(慶長2年)には宇都宮氏が豊臣秀吉によって改易され廃寺となった。名残として、元境内地の町名には江戸時代に千手町や釈迦堂町、普賢町など仏堂の名前が冠された。
忘れてもらっては困る。文殊堂もあった。ちなみに観音堂もあったらしい。
廃寺となってから、お堂を残すようにして、民家が出来たのだろう。
明治になって、それらのお堂をナントカしたいということになったのだろう、その内の文殊堂が、ウチに来た。
ウチの檀家さんだった方が議員さんで「ウチで引き取る」ということになったと聞いた。
どういうワケかその跡地の所有もウチになっていて、そこにあったデパートのような「マスキン(枡金)」から地代をいただいていた。
その後、枡金が無くなったからだったか、またまたの再開発で土地の大部分は売却されたが、どういうワケか参道の土地だけ残り、細長い土地の地代をいただいていた。
それも、PARCOが出来る時の再々・・?開発で無くなったんだった。
余計な話が長くなったが、その参道は坂道を登るようだったという。
明治の開発は、凸凹していたのを平にするものだったのかも知れない。
およりの鐘と普賢菩薩は宝蔵寺へ、鉄塔婆は清巖寺へ、お釈迦様は恐らく興禅寺へ移ったようだ。
さて「二荒山神社」はもう一座ある。
言わずもがなの日光二荒山神社である。
この二つの「二荒山神社」が、基本的に「謎」である。
日光二荒山神社は(ふたらさんじんじゃ)と読む。
Wiki先生は次の用の仰る・・・
神社名「二荒山(ふたらさん)」の名の由来には諸説がある。
●「補陀洛山」説・・・観音菩薩が住むとされる「補陀洛山(ふだらくさん)」が訛ったものといわれ、後に弘法大師こと空海がこの地を訪れた際に「二荒」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたとする。ただし、空海の来訪は伝承の域を出ない。
●男体山・女峰山の二柱の山の神の二神二現説。
●暴風雨説・・・妖怪の雷獣が現在の第一いろは坂の屏風岩付近に潜んで、年2回に一帯を荒らしたために「二荒」と呼ばれたとする説。
●アイヌ語の「フトラ(熊笹)説
●毛の国の祖としての豊城命と彦狭島王(ひこさしまおう)の「二現(ふたあら)」説
・・・等々、色々あるが、決め手に欠ける。
なお、男体山山頂遺跡の出土品から、鎌倉時代の初期には「二荒」と「日光」が併用されていたことが判明している。
「補陀洛山・説」と「二回荒れる・説」は、出流山で加行をしている時に縁起で聞いた。
(ふだらくさん)なら、読み方は(ふたらさん)になるわな・・・と。
日光二荒山神社は、日光連山の男体山・女峰山・太郎山を御神体としている。
男体山は、そもそもが、日光二荒山神社の境内=所有物である。
男体山→大己貴命(おおなむちのみこと)→千手観音
女峰山→田心姫命(たごりひめのみこと)→阿弥陀如来
太郎山→味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)→馬頭観音
この日光三山の本地仏として、日光輪王寺の本堂・三佛堂には千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音が祀られているというワケだ。
今や、日光と言えば東照宮、という感じだが、東照宮は徳川家康を権現として祀る神社。
もともと二荒山神社と輪王寺が山岳信仰の寺・神社として、混淆の状態で、古く奈良時代からあった。
家光さんが、その間に東照宮を造ってしまい、それが明治の神仏分離令があり、今の変な形になってしまったのだ。
なので経蔵・五重塔・薬師堂(本地堂)など、一部の建物については現在も東照宮の土地のように見える所にある。
二荒山神社西側の奥には大猷院霊廟の建築群があり、その南側には輪王寺の常行堂と法華堂、そこから長い石段を上った先には中興の祖・天海を祀る慈眼堂がある。
勝道上人を祀る開山堂は東照宮北方、滝尾神社への参道の途中にあるという具合。
混淆している。
逆に「明治になる前の状態」が残っていると言ってもよいか。
・・・つづく・・・・

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