宇都宮市からだと、ご覧の様な日光連山が見える。
私らは当たり前のように見ているのだが、見る場所が変わると当然見え方が変わってくる。
妻と交際中(妻は県北・黒羽の人)、県北方面に行くと、日光連山の見え方が随分違うんな〜、という極々当たり前のことを認識した。
かねてより疑問があった。
この丸い山の方を「男体山」と呼ぶが、どうしてゴツゴツした方が女峰山で、丸みが特徴の山が男体山なのだろう?・・・ということ。
これに関して『性神の謎』の著者が興味ある説を挙げている。
それは男体山の形は、チンチンの先っぽだということ。
古代の人は、それに生命の不思議たる男根をイメージし、故に男体山なのだ、と。
そう思うと、女峰山は女性器のようであろう(ワタシ説)・・・と。
なんだか、とっても納得がゆく。
そう思ったら、もう、そのようにしか見えない。
『性神の謎』の著者は次のように書いている。
関東平野を見下ろして雄渾の山がある。その姿は、あたかも内なる精気がこんこんと脈打っているかのように隆として逞しく、しかも、なだらかな稜線の山頂をくるりと丸く描いて男性性器の先端部をかたどっている。けだし、その名の起源もここにあるのかと思わせる日光連山の主峰、男体山である。
男体山すなわち男根山・・・こういってしかるべきほどの山容をもってして、この山は古くから野の人々に畏敬崇拝されてきた。
こういう見方は、公には憚られそうな突飛な考えと思われそうだが、よくよく考えると、これは、納得できる点が多い。
今のような倫理観の無い、素朴だったころのお話である。
男体山を父として、女峰山を母として、太郎山・大真名子山(おおまなごさん)・小真名子山(こまなごさん)という家族構成になっている。
「真名子」は「愛子」であろう。
いつからこのようになっているかは分からないが「男体山・女峰山」という認識は古くからあったよう。
本来は「男体山、女体山」だったのではないだろうか?
そう認識してから、この山々への思いは「子孫繁栄」になったのだ。
男体山の開山は勝道上人ということになっている。
782年(天応2年)のこと。
これについて弘法大師・空海さんの『性霊集』に詳しく書かれている。
「沙門勝道山水を歴て玄珠を瑩(みが)く碑 ならびに序」にある。
勝道上人は下野国芳賀の人であり、同じ州に補陀洛山(ふだらくせん)がある。夏の青々としてそびえる山嶺は天の河に突き刺したようであり、冬の白雪の峰は空に突き当たっているようである。盛んに鳴りわたる雷は山腹あたりで鳴り、これを山頂で聞けば、ワニが吠えているようである。
高天を飛ぶ鳳凰も山頂から見れば、はるか麓で羊の角がくねり曲がっているように見える。
山の魑魅も希で、人の通る道も絶えた。
聞くところによると、いまだよじ登る者はいないという。
・・・というようなことが書かれている。
これは、勝道上人の関係者が、縁を伝って弘法大師さまに碑文をお願いしたものと聞く。
おそらくこれを元に、日光にお大師様の足跡があるという「伝」が生まれたものと思う。
しかし、この碑文という、いささか大袈裟に書くとししても、実際の男体山を見ないでかいているであろうことは明らか。
まったく、イメージが違う。
ただ、男体山と、観音様のお浄土・補陀洛山とを結びつけたのは、これによるものとも考えられる。
さて、勝道上人は、お大師様の書かれたように、男体山を補陀洛山と信じて登ったのだろうか?

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