小学生の時から中学にかけて「これが青春だ」という、いわゆる「青春物」と呼ばれる番組を見て、自分よりずっと上の高校生生活にバクゼンとした憧れを持っていたように思う。
親の管理下にあるような子供の自分と、己の意思で生きようとする高校生のひたむきな言動に、単純な憧れを持って見ていたように思う。
でも『俺たちの旅』はチョット違った。
自分も大学生になって・・・
現実としての『俺たちの旅』と同じ「大学生になった自分」は、ドラマチックではない、何でもない、ツマラナイ学生生活だった。
「これが現実だ」と思い、憧れではなくなっていたように思う。
そこで語られていることは、就職した時点で、忘れた、と言って良い。
相当に仕事に打ち込んだが、それはそれで充実したものだった。
人生に対する、憧れも、夢見る必要もなくなっていたように思う。
「日本テレビの青春物メソッド」に・・・
いや『太陽にほえろ』とかも入るから、プロデューサーの「岡田晋吉メソッド」と言った方が良いだろう、そういう「式」がある。
前の記事にも書いた様に、主人公の教師は、教師になるべくして成った訳ではなく、学生の時に希望と自由と可能性を求めて海外に行って帰ってきた。
教師を目指して成った「普通の」教師とは違う。
経験値も「普通」とは違っているが、新米である。
担当は、問題のある生徒が多く、出来の悪いクラスである。
そこで精一杯頑張って、生徒とともに成長する。
生徒と共に涙もする。
生徒を理解する。
・・・そんな「式」がある。
そこに『飛び出せ青春』あたりから脚本家・鎌田敏夫氏が加わって、青春物のドラマツルギーは盤石な物になる。
『飛び出せ青春』『われら青春』あたりは、単純に感動して見ていたように思う。
小学・中学の頃は、遠い所にある「青春」に憧れていた。
ドラマで語られる若者の言動に感動し、憧れていたと思う。
今から思えば、単純とも言える内容だけれど、ドラマツルギー自体、全てがそうだった。
昔は単純に感動していたが、今も見ると、シナリオの破綻が見られるというようなことが多い。
あの時代、あの頃に、自分が何歳で見たか?、ということも重要なことだ。
「青春」とは「青い」ということ。未熟であるということ。
島本和彦先生の『アオイホノオ』というマンガは「炎モユル」という主人公が、まだ「青い」時代の話しということだ。
だから「アオイホノオ」なのだろう。
「青い」が故に間違いを犯し、恥を掻き、悩み苦しむ。
自伝的に語っているものだが、これは「青春物」を見て来た世代のパロディにも成っている。
青春物を踏まえた上で、パロディ的に語るしかできないようになってしまった。
主人公は熱血だが、作者もそれをパロディとして作り、読書もそう受け取っている。
それは、自分の変化かも知れないが、世の中の変化だろう。
ある世代が、かつての梶原一騎の作品のパロディを作ったように、あのようなひたすら一途な生き方というものは、もはやパロディにしかならない。
島本和彦先生も仰っているが、梶原一騎の描く生き方を我々がするとオカシナことになってしまう。
「現実」を見た時に、それはあり得ない、ということになって、笑うしか無い、という時代が、すぐ後に来る訳だ。
漫才ブームの時に、ヒップアップというグループが、青春モノをパロディにしたネタをやっていた。
時代の空気は、ああいう感じになっていた。
『俺たちの旅』は、そうではな。
茶化せない。
製作側はいたって本気である。
堂々と変わらぬ信念で「続き」を作っている。
「続き」・・・そう「旅」は続くのだ。
高校生の青春物が終わって、ドラマの主人公たちも大学生になった。
その時代は、高度経済成長が怪しくなって、世の中がちょっと停滞したような状況だった。
学生は冷めていた。
現実を見ていた。
「現実」はドラマのようではない。
それは、現役の大学生は感じている。
このドラマの3人の生き方に共感しろ、と言われても・・・という気持ちだったか。
いや、単純に、カッコイイと思ったか?
ワタシには、遠く過ぎ去った「過去」のことで、当時の気分を思い出すことは難しい。
これが放映された前の年に『傷だらけの天使』が始まっている。
『俺たちの旅』は1975年10月5日放映開始。
その前に『傷だらけの天使』が1974年10月5日から1975年3月29日まで。
あの退廃した世界観の後に、コレをやっている。
まあ、青春枠はずっと続いていた訳だけれど・・・そういう時代に、投げかけられた作品だった。
最初の作品に「旅」と付けたことが良かったのかも知れない。
最終回はあったものの「旅」は終わった訳では無い。
その主人公たちの「その後」もある筈だ、という思いが続編を作らせた。
これは、郷愁と言えよう。
製作者側の郷愁でもあるし、見ていた我々の郷愁もある。
製作者側の思い入れも大きかったし、これをヨシとする視聴者も多かったから、続編が何度も作られたんだろう。
ドラマの中での3人は、変わっていない。
環境は変わっても、心の「芯」は変わっていない。
その「変わっていない」という所が、この映画のキモなんだと思う。
それを変わってしまった我々が、どう捉えるか、ということがこの映画の存在意義なのだと思う。
恐らく、作者やキャストは「続編」を作っているのだろう。
それは、パンフレットに書かれた文章を読むと分かる。
しかし、受け取る側はどうだろう?
ワタシがひねくれているのかも知れないが・・・素直には受け取れない。
・・・続く・・・
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