葬儀のこと・・・(一日葬のこと)

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3〜4月、葬儀がたてこんだ時に「一日葬」というものが結構な割合を占めていた。
葬儀社が「一日葬で行なっていただけますか?」というようなことを聞いてくるところが、今もある。
ということは「通夜無しはだめ」と言っている寺が、結構あるということだ。
実際「通夜はやらなければだめ」と言っている寺を知ってはいる。

ウチは受けている。
それは、その昔、通夜に寺を呼ばない地区がいくつかあったから「通夜はやらねばならぬ」とは言えないな〜・・と。

そもそも「通夜式」なるものは、ホールができてからの話だと思っている。
それまでは、自宅に集まっていた。
そこに行って読経するが、そもそも通夜のお経というものは無く、やりかたも決まってはいない。

思うに、亡くなった、という時に駆けつけて行って「枕経」を読む。
本当なら「二十五三昧式」から「臨終行儀」として行う、つまり、亡くなる際が良いのだが、それは難しく、亡くなったという知らせとともに駆けつけたのだと思う。
大河ドラマ『鎌倉殿』でも『光る君へ』でも、亡くなりそうだ、という時に、剃髪し出家させるということをやっていた。
そういう意味合いもあったろう。

また、通夜の段階では「亡くなってはいない」ということでもあったろうと思う。
「亡くなったのかな?」である。
だから、一晩明かすのだ。
長男とかが添い寝をする、という風習がある所もある。
今は、死亡診断書があってこその葬儀だが、そうなったのは近代である。

若しかしたら起きてくるかも知れない・・・というのが通夜。
まだ「この世の人」なのだ。

葬儀の間も、恐らく昔は柩の蓋はせず、蓋をするまでは「この世の人」だったのだと思う。
蓋をして、釘を打って、そこで「亡骸、抜け殻」になり、それは「物」となって、埋めたり燃やしたりできる。
そういうものだったのだろうと思うのだ。

そもそも「通夜」という。
「夜を通す」ということで、そこに意味があった。
それは前述の通り。
読経をしても、それは「通夜の入り口」のようなものだ。
そこに重要性はないものと思う。

コロナ禍においては、火葬場が、火葬場に来る人数を制限していた。
宇都宮の場合は、20人だったか、21人だったか?
控え室にソーシャルディスタンスで入るとその人数になるらしい。

親戚が多い場合、何処で線を引くかが、難しく、それならいっそ家族だけにしてしまおう、というような感じが結構多かった印象がある。
葬儀への参列も最小限となって、通夜・葬儀をほぼ同じメンツが参列する、という感じになり、それならば、1回で良いのでは?
・・・という雰囲気もあった。

ホール葬になって、通夜の意味合いが大きくかわってしまった。
通夜になら会社が終わってからでも行けるということが大きいのだろうが「通夜の方が参列者が多い」という葬儀が多くなった。

そういう点からも、コロナ禍で通夜をやる意味が薄れてきてしまったのだ。

「家族葬」などと称するやり方が多くなってくると、ますます通夜の意味は薄れてしまった。
本来の意味なら通夜は必要ということになるが、近年の「葬儀と同じような通夜」という意味合いでは不要という感じになる。







この記事へのコメント

  • 007

    昔、友人が通夜に母親と添い寝したと聞き、、、
    なんか妙な気分がしました(・・?
    2025年06月13日 14:28
  • 三日ボーズ

    風習が残ってるんですね。
    2025年06月13日 14:32
  • 007

    さすがに富士のラージセンサー機、、、
    高精細の絵ですね。。。
    2025年06月13日 23:17
  • 三日ボーズ

    これは、シグマですね。
    2025年06月14日 07:47
  • 007

    画素数は富士よりも下ですか?
    間違えました(;^_^A
    2025年06月14日 10:11