4件続いた葬儀の内、お通夜があったのは1件。
後は家族葬1件と直葬1件。
家族葬という内の1件は、中小と言って良いか、企業の社長さんだった。
普通のホールの中にある、家族葬用の小さな会場だった。
受付の時「大丈夫ですかね〜?、ちょっと心配ですが・・」と言ったのだけれど・・・
故人の遺志で、ということ。
なんでも、自分の父親の時には、色々大変でお別れどころではなかったので、自分の時はそうならないように、家族だけで、と仰ってたということだった。
「来ないで」という風に言ってあるんだそうな。
そう仰る施主さんのお顔には、強い決意がうかがえた。
まあ「葬儀は家族のみで執り行います」というような一文なのだろう。
本当にそれで良いのだろうか?
これも「家族葬」というようないい加減な言葉が勝手に広がってしまったことによる。
そういう言葉が無かった時には考えないことだったと思う。
ある意味「普通に」行うしか選択肢が無かった、とも言える。
しかし、それが悪いとは思えないし、今のいい加減な家族葬ブームを良いとは、断固、思わない。
今回の故人の場合、お父様の葬儀の時に大変だったということは、今回だって、それ相当の方が参列されるだろう、ということ。
義理と人情での参列が殆どだろうが、それこそが大事なのではないだろうか?
社会人として、社会とのお別れをするという意味も、葬儀にはある。
結婚式と披露宴の逆である。
新しい所帯を持つことを披露する・・その逆で、お別れをする。
同等のことと思う。
そりゃぁ、例えば90歳を超えるお婆ちゃんの葬儀であれば、お友達も少ないだろうし、いても参列できないような状態かも知れない。
そういう場合は、参列するのは、喪主や家族の友人知人が「ご母堂様の・・・」と言って参列する。
そういう故人を直接知らない人が参列するようなケースは、参列しなくても良いのかと思う。
コロナ禍で、皆が参列しないで帰るということを必然としていた時を経過して、今は、そういう人たちが参列無しで帰ることが目に付く、と葬儀社もの人も言っていた。
しかし、会社となれば、そういう意味も変わってくる。
会社なら仕事の「お付き合い」も多いだろう。
「お世話になりました」のレベルも上下大小あるだろうが、本当にお世話になって・・・という方も多いだろう。
そういう「お別れをしたい」「お世話になった」と言って参列したい人の気持ちを踏みにじるような気がしてしまう。
「家族葬」といういい加減な言葉は、そういう人に対して「家族以外は来るな!」という、強いメッセージになってしまうのだと思う。
地元・下野新聞も、お悔やみの欄に「家族葬」という言葉を簡単に使っている。
この定義のされない言葉を新聞社が無批判に使って良いとは思わないのだが・・・!
もっとも、下野新聞は時間の表示に「告別式」と書くという大間違いをしている。
「告別式」は、本来、宗教が入らないものを指す言葉だった。
いや、今でも、告別式は「お別れの式」であるという言葉であることに変わりは無い。
宗教が入れば「葬儀」である。
「家族葬」というものも、本来は無い。
強いて言うなら「葬儀ではないが、家族だけでお別れをする」というのなら、僧言っても良いかも知れない。
元々は、タレントさんが亡くなった時に、近年は、葬儀が分かってから報道される。
それは、家族・親族がお別れ・葬儀を(家の宗教で)キチンとしてから、知らせるようにしているからだろう。
報道に於けるそういう申し合わせがあるのかも知れない。
そういう場合は、必ず「追ってお別れの会を開きます」と言っているはずだ。
そういう場合、不特定多数が来るので宗教を抜いてやることが多いと思う。
このイメージが、やさしいお別れ・葬儀、という印象を一般人に与えていたのだと思う。
創価学会が行なう「友人葬」という言葉も若干影響したかも知れない。
政治家さんとか、社長さんだったら、それは「密葬・本葬(社葬)」ということになる。
寺の場合は「密葬・本葬(檀徒葬)」という事になる。
今回の葬儀の場合も、家族親族で葬儀をして、後で、ホールを使って社葬をすれば良かったのだと思う。
そういう方法を、故人も家族も知らなかったのかも知れない。
その陰には「家族葬」という誠に不適切な言葉が横行して居しまっている、ということがあるのではないだろうか?
葬儀社も、社葬という提案をすれば良かった。
そうなれば、葬儀社だってより収入があったろうし、寺のお布施も、故人の遺産からの控除では無く、経費として扱えたはずだし、香奠も集まったろうに・・・
僧言えば、悪く言うと「香奠の受け取り拒否」をする人も出ている。
以前、作家の野坂昭如さんの葬儀に行った時、やはり、香奠は受け取っていただけなかった。
残念だと思った。
文化人の皆さんとか、そういうことが多いのだと思うが、一般の人もそうする人がいる様子。
これも困った意識だと思う。
家族葬も、故人が「家族に迷惑掛けたくない」とかいう言い方をしたり「子供に迷惑掛けたくない」とか言ったり、香奠のお断りだって、来る人に負担を掛けたくない、というような意識なのだと思う。
付き合いが面倒、ということもあるのかも知れないが・・・
そういう余計な(おかしな)理屈を生んでしまっているのも「家族葬」という言葉の流行が災いしているように思える。
ここから、変な意識が蔓延っているように思えてならない。
こういうことは「お別れをしたい側」の気持ちをまったく考えていないのだろうと、思える。
そういう人も、もし友人・知人・お世話になった方が亡くなったら、お別れをしたいと思うでしょうよ?
「葬儀の費用等の足しにして、生活の足しにして・・」という気持ちで、香奠を包んで行きたいと思いませんか?
・・・ということなんですよ。
亡くなる人が葬儀のこと等を考える時には、割と視野が狭まっているのだろうと思う。
だんだん、自分と家族のことしか頭に無くなってきてしまって、お別れをしたい人の気持ちなど考えられないようになってしまうのだと思う。
「家族葬」という言葉を流行らせているその周辺でも、そういう思いの広さが無い。
そういう所で語ってしないという視野の狭さと、いい加減さが蔓延している。
人々は、そういういい加減な意識操作を受けてしまっている、という意識すら無い。
そういう歪な環境が「家族葬」という言葉の裏にはあるのだと思う。
この記事へのコメント
油注し
会館についたら通夜の読経が始まっていて、座る場所もなさそうなので皆さんに倣ってロビーで待っていました。通夜が終わってからお焼香・喪主へ挨拶して帰路につきましたが、
通夜に行けない方が出棺のお見送りに出たが霊柩車を見かけなかったとのことでした。納得できないものが残った葬式でした。
このブログで言うように、家族葬・通夜参列で風習が変わってしまったと痛感しました。密葬としての家族葬なら理解できますが、通夜参列というのが奇妙に感じました。新たな宗教儀式が生まれることを願っています。
三日ボーズ
会社を終えてから、或いは早退で参列できるので、都合が良いのでそうなったのですが、葬儀の比に少なくなってしまうのが寂しいものです。
とはいえ、通夜でも多くの方が集まっていただければ、それもヨシ、と。
コロナで、どちらも参列無し、になってしまい、コロナ禍過ぎても、通夜にきて挨拶して帰る人も増えました。
本来は逆ですが、通夜にのみ参列、というのも多くなるのかも知れません。