淡座リサイタルシリーズ CD発売記念「桑原ゆう 言祝会」


12月1日・・・今日は、ココ。

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板橋区東新町にある、真言宗豊山派の寺にて。
密度感ある町並みの中に、大きな木もある大きなお寺。

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瑠璃光堂と言うくらいで、薬師三尊。
何とも輝かしいステージである。

ここで・・・
淡座リサイタルシリーズ CD発売記念「桑原ゆう 言祝会(ことほぎえ)」

初めに豊山派の僧侶がひとりで「唄(ばい)」を唱える。
唄は、法要の最初に唱えられるもので、唄は「唱える」ではなく「引く」という。
文字一文字の音を長く伸ばすのは天台も真言も一緒。
老僧の役で、声を張らずに引くのが普通。
法会を静める、という意味もあるという。

●「唄と陀羅尼」

その後のバイオリン独奏が「唄と陀羅尼」。
これは、ワタシの拙い音楽感には・・正直分からなかった。

唄というと、私らから見れば、年寄りが静かに引くシンプルな旋律でしかないが、それとは聞いた印象は大分違う。
節回しが強調され、激しい心の波が、心の中で立体的にうねっているというような印象。
じいちゃんがひとりで力なく引く唄が、力強いエナジーを持った波となって、心の中を縦横無尽に往き来する感じ?
静かでシンプルな唄のイメージから大きく飛躍するものが感じられた。
また「陀羅尼」というのは、妙法蓮華経陀羅尼品だろうか?、日蓮宗で唱えるリズミカルなもの、あれからイメージを広げて生み出された曲のよう。
元がリズミカルなものなので、音楽的ではあったろうが、バイオリンの左手が単に弦を抑えるだけではなく、叩く弾くというような演奏があり、超絶技法と拝察する。

●「はすのうてな」

これは、桑原さんが主宰する?「淡座」で行っている落語と音楽という試みの成果。
音楽的にも、江戸時代に軸を置くような展開をしていて、落語も江戸時代を舞台とする江戸文化の代表的なもの。
その合体である。
古今亭志ん輔さんが語る落語に、淡座の面々が音楽を合わせる。
時にBGMであり、時に効果音として、また、心理描写として音楽が鳴る。
これが、案外心地良い。

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●「逢魔が時のうた」
●「やがて、逢魔が時になろうとする」

「逢魔が時」というのは、泉鏡花が好んで使っていたという言葉だそうな。
昼から夜に移る時間帯。夕日が沈み空が暗くなっていく時間帯。
電気が無い時代には、この夜に入る時間というものは、深い意味合いがあったのだと思う。
そこに色んな感情を抱いていたのだろう。
施餓鬼で霊魂の如きが動くのはこの時間。
その怪しく、不安定な変わりゆく時間が描かれる。

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桑原さんの創作される音楽を語るには、ワタシの音楽知識と感性は絶望的に乏しく、とても言葉になどできない。
「現代音楽」と桑原さんも仰るが、これは、楽器と音とを決まり切った法則性から解き放って、自由に心を表現するものなのだろうと思う。
だからか、メロディ・リズム・ハーモニーという音楽の三要素ということはワタシにも記憶があるが、桑原さんの音楽には、これらがまったく自由に存在するという感じがする。
時に心地良く、時にノイズにも聞こえる。

●「三つの聲」

バイオリン、ヴィオラ、チェロの弦楽三重奏。
私の音楽的知識からは言語化が難しい。

現代○○・・・というモノがある。
例えれば「現代アート」。
写真もそうだが、今、このあたりが迷走しているように思えてならない。
アートというものが、無から生み出す創造性、ということから離れていって、イデオロギーの発露になっているような、例えば、廃棄物を集めて、それで現代を表す、というような作業が行われていて、創造性から遠ざかっていて、そういう才能よりも、思いつきで、在る物の組み合わせや見せ方で思想を表現するという方向がある。
これは、写真も影響を及ぼしてしていて、私はそういうアートや写真が嫌いなのだけれど・・・

桑原さんの目指す現代音楽は・・・と言っても、日本の古典である、声明や能、浄瑠璃などの音楽からリスペクトされているのだから「古いもの=伝統」をベースとして、そこから「新しいもの=創造」をしているというものだと言えると思う。

音楽と言えば「メロディ・リズム・ハーモニー」に依ってできているものは「音楽」という全体から見ればホンの一部でしかない、ということは、何となく分かったように思う。
楽器を使って、聲を使っての表現には、様々な方法がある。
そういう表現としての音楽には、もっともっと広がりがある、ということだ。

●「観音廻りの段」

これは新作という。
パンフレットには次のようにある。
いつか、日本語の発声と歌唱方法を駆使し、日本語の大きなオペラを作曲したい。日本語を如何に語り、唱い、唱えるか、また、それをどう記譜するか。これは私のライフワークともいえる問いである。

いつかオペラを書くそのときが来たら、テクストに何を選ぼうか。近松門左衛門の戯曲は有力候補だ。その「練習」ではないが、初めの一歩を踏み出そうと思い、「曽根崎心中」より、現在では文楽でも歌舞伎でもほとんどの場合上演されない、導入部分「お初観音廻り」をあつかうことにした。


ここは浄瑠璃か・・というところを、声明の「講式節」で創られた。
これは、私の分野でありますわな。
まあ、これが聴きたかった、という感じですね。

派手に歌や楽器が鳴る歌舞伎歌も、元は能狂言の上演形式を受け継ぎ、音楽も小鼓と大鼓と太鼓と笛だったという。
それがやがて民間に流行したさまざまな雑芸や踊り、俗謡や民謡、祭文節などが取り入れられていったという。

それを辿れば、浄瑠璃だったり、浪花節だったり、能の謡いだったり、声と楽器の掛け合いのようなものは古くからあった。
そういう芸の元になっているのが声明の講式と言える。
今回は、その語り物の原点と言われる講式節に、三味線・チェロ、バイオリンが音を加える。
語り(声)先祖返りに、最新の音楽(音)が加わる、ということになる。
古くて新しいもの・・・。

桑原さんの講式節は「螺旋曼荼羅海会」で驚いたわけですが、今回も、我々の講式節に楽器の音が加えられているものの、講式の方は基本を外していない感じがあるので、違和感が無い。
特に「初重(低い音域の部分)」は、ちょっとゾクッとした。
語りに楽器が加わるのは「はすのうてな」の、落語のソレと同じだけれど、三味線の鳴り方が平曲の琵琶のような感じで、そこだけ聴けば平家物語のようでもある。
時に、浄瑠璃風だったり、謡曲だったり、色々な邦楽が見え隠れする。
いろんな伝統の「響き」が垣間見える。

これは、講式節を歌う坊さんの方も大変だと思う。
キッチリ音を外さずに楽器と合わせられるのは難しいだろう。
私にはできないな、と思う。
ちょっと悔しい。(^^)


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ステージ脇にこんなスペースがあり、ご住職が音と照明等の演出をされる。
こういうことがお好き、ということのよう。

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お水取りの絵の前に、こんなコンソール・・・と言いたいけれど、いまは、ミキサーもタブレットのアプリなのか・・があった。
すごい。
羨ましい〜。
ウチもやりたい。





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