山上新平 Special Talk Event「not yet...」
8月17日、東京・井の頭公園近く、吉祥寺にある「book obscura」というところで、写真家・山上新平さんのSpecial Talk Event「not yet...」。
住宅地にある小さなお店で、写真集(新刊・古書)を専門に扱っている。
八戸市で行われたトークイベントが良かった、と渡部さとるさんが仰ってたので、どんなものか、と行ってみた。
これも、渡部さんがオススメの写真集『KANON』。
山上新平さん。
1984年鎌倉生まれ。
2004年、東京ビジュアルアーツ(写真学科・ファッションフォト専攻)卒業後、イイノ・メディアプロ入社。
スタジオカメラマンとなる。
カルチャーファッションへの興味から、クライアントワーク方面への憧れがあったという。
写真は、18歳の時に、おじいちゃんが寝たきりで、片目だけが反応するような状況にあり、元々写真を趣味としていたおじいちゃんのカメラで写真を撮ってみたら、それがおじいちゃんとのコミュニケーションになるだろうと、お婆ちゃんに言われてカメラを手にしたという。
また、その頃、バイトをしていたコンビニに、写真をやっていた人がいて、写真集を見せて貰って、こういう世界があるんだな、と思ったという。
その後、おじいちゃんは亡くなったが、この時期に写真と写真集というものが繋がって「写真を撮る」という方向性が生まれたということだろう。
スタジオカメラマンは良い経験になったがハードすぎて体が限界となり、病的な状態になってしまって、辞めることとなったという。
実家に帰って、写真を続けるのかどうかと考え、森に入って、森を撮ることとなる。
概ね8年。
20代を殆ど森に入って、森を撮ることとなる。
そういう状況が許されたと言うことは、よほど精神的にか、肉体的にか追い込まれた状態だったのだろう。
そこで被写体から色々な物を貰ったと思う、と言う。
このあたりは、自己完結でしかない。他人には想像すらできないことだ。
30代になってから(森を「撮った《過去形》」と思った後)一気にグループ展・個展を続けることとなる。
そして、2023年、東京都写真美術館「見るまえに跳べ 日本の新進作家vol.20」に選ばれる。
お金を出して(ギャラリーを借りて)展示する、自費出版をする、というのは「違う」と思ったのだそう。
自分の写真を「正しい場所」に出さなければいけないと思ったとも言う。
被写体から得た物が沢山あったので、そのお礼の意味でも、きちんとした所に出して評価を得たいということだろうか?
それで『KANON』の装丁家に持ち込んだりしたらしい。
ここで、内なる葛藤の「結果(=作品)」と、写真界の「評価」が合致する。
人は人それぞれで相対的なものなので、純粋にただただ生きる物、という絶対的なものを見つめ、撮ることができたら写真を続けよう、という決心をし、8年ほど森に入ったという。
20代は人生おいて精神的に辛い状態だったという。
森を撮っても、写真に「自分」が出てしまう。
それではイケナイと思う。
「被写体が立ち上がってくる」と氏は表現している。
「やっと自分がいなくなったな」とも。
その葛藤に8年かかった、ということだろうか?
写真というものは、いや、写真に限らず芸術も、いや、作品たるものはすべて「己」をどう出すか?というものである一面を持つ。
それこそが作品である、という意味合いの方が高いかと思う。
そういう意味合いを殺すとこから山上氏の写真が始まった。
しかし、そういう「撮り方・作品への向かい方」も個性ではないだろうか?・・・という疑問も浮かぶ。
インタビュアーが(森を撮った後)写真を見せに行っている、と表現した。
森に入って、自分が出ないように撮る術を感得したものの、それは「作品」を作るための行為であった。
作品としてまとめて、人に「見せる」ということが目的としてあった。
写真から自分の存在を殺したののも、その目的があったからだ。
それをトータルして「自分の内面」なのではないだろうか?
そこに強烈な「自己」が存在しているように、私は感じる。
初め、写真はおじいちゃんに見せるものだった。
しかし、おじいちゃんは間もなく亡くなってしまった。
写真を撮るという行為におそらく意味合いを持ち始めたとき、その意味合いが亡くなってしまった。
その頃「写真集」という表現の方法がみつかった。
写真とファッションへの興味から商業カメラマンを目指すが、挫折のような状態になる。
それは、自身の中に強烈な「自己」があったからではないだろうか?
「自分を入れない」という点なら、商業写真ほどの物は無い。
アシスタントとして働くということは、相当な労働が伴い、滅私奉公のようなもの。
そこに心が反発したのではないだろうか?
心の奥底にある強烈な自己・プライドが許さなかったのだと思う。
まったく、勝手な想像だけれど、そんな危うさが氏の写真にはある。
初め感じた「迫力」はそういうものだったのか?、と思ったのは・・・
同時に展示されていた氏の日記帳を見て思った。
見てはいけない物を見た、という感じだった。
ポエムのような文章に、飾ったような書体。
痛い心をのぞき見てしまったような思いになった。
これは見ない方が良かった。
相当に強い自意識が根底にある。
文章は、本が好きで多く本を読んできた、というから、言葉の紡ぎ方は心得ているという感じを受ける。
しかし、この日記すら「誰かに見せる」ということを意識しているようにすら思えるのだ。
その忸怩たる思いが込められていて、込められ過ぎていて、辛い、と思った。
そして森の後「蝶」を撮る。
森を撮るウチに、割と簡単に撮れるようになってしまって、そうなると被写体を搾取しているような感覚になってしまう。
これ以上はない、というくらいカクトウしたので、それまでの「目を壊す」必要があると考える。
森の「静」にたいして動きのあるものとして「蝶」を撮ることを考えた。
その時の気持ちは、文字に書き起こして考えるのだそう。
その後「波」を撮り始める。
生まれた環境にある海だ。
森、蝶、波・・・みな「終わっている」のだそう。
作品を作る作業はテーマを追って、完結すれば、そこで終わりということ。
その辺が、ストイックではある。
要するに、被写体は写真という物を手段とした自己表現(と私には思える)のモチーフであり、単なる材料であり、自分の中で「何を撮るか」を突き詰めてみつけたものに過ぎない。
その被写体を撮りたくて撮っているワケでは無いから「これは撮り終えた」と思えば、そこで終わって、再び同じテーマでとることは無いということだ。
普段から「写真を考えている時間」がある、ということも言っていた。
それも含めて、彼にとっての「写真」なのだろう。
だから、出かけるときにとりあえずカメラを持つ、と言うことは、無い、と。
蝶の写真を見ていて思ったのは、初め、どうしても「何で、どう撮った?」ということが気になってしまうということだった。
私の写真体験として、カメラ雑誌に載るカメラマンの「データ」を見ることが楽しみだった。
その意識は今に至っても在り続け「こういう写真を撮るにはどうすればいいか?」ということ転じて「この機材で撮れば撮れるのか」ということになり、機材をアレコレ考えることになってしまう。
初見で、この写真はそういう見方を完全に拒絶しているな〜ということを思った。
ただ、思い描くのは、1枚として標本的にピントの合ったキチンとした写真が無い、ということを決定する根拠が知りたいと思っていた。
もしかしたら、そういう写真は撮れなかったのかも知れないし、撮ろうとしなかったのかも知れない。
「学術的な研究目的で蝶を撮りたいわけではない。撮影の最後まで蝶の名前や分類、生態には関心が生まれなかった」と言う。
自然の中の蝶を撮ることは難しく、結局、多摩動物公園にある「昆虫生態園 大温室」という所で撮ることにある。
彼にとって、動く物として、捉えようのない生命の動きとてしての蝶を撮れれば良いのであって、場所はどうでも良かったのだ。
そこに11ヶ月の間に15回通って撮ったという。
それまで「独り」で撮っていた彼にとって、多くの人が訪れる中で、もしかすると、ちょっと異様な雰囲気で撮ることは、初めは大変だったろうと思う。
おそらく、人の世界を離れてたくて森に入り、その後、人のいる世界に、若しかしたら「ヘンな人」という雰囲気で、入って行く。
そうか、そういう視線中にいると言うことは、それも結局の所「孤独」だったのかも知れない。
写真というものは、その仕組み自体は科学的なものである。
ロジカル以外の何ものでもない、と言える。
デジタルとなって益々その傾向は大きくなっている。
それを用いて、表現をするというのも、科学との戦いでもある。
森と波の写真はフィルム的だが、蝶はいささか違う。
これはなんだろうか?
森山大道氏の写真がデジタルになっても「変わらない」と思わせる作家性と同じようなものか?
普通に撮ればチャント写ってしまうものを、表現に変えるのも「技術」かも知れない。
そういう意味で、山上氏が、蝶をどう撮ったのかは気になる。
質問コーナーの最後に・・・
見る力を鍛えるということはどういうことか?
自分を写真を見るにつけ、見えてないな〜と思い悩んでいるという女性がいた。
私も見えていません。
私が求めている写真は、飽くまで「写真」であって、表現としての「作品」ではない、ということが分かった。
この延長上には、コンテストの受賞くらいしか無い。
表現とは言えない「撮った」というだけの写真だ。
そこから抜け出して、表現としての写真を目指すと言うことは、大変なことだ。
山上氏は、写真を撮り始めた時に、写真集という良い表現手段を知り、しかし、目的のひとつだった祖父を亡くすということになった。
写真に魅力を感じて、コマーシャルフォトを目指すが、おそらく、仕事と自己とのジレンマに心と体が引き裂かれたのだろう。
社会から逃げることで自分を見つめ、表現の手段を模索していたのだろう。
そこには、カメラマンとしての基本的な技術はあってのこと。
また、写真集・写真展という表現手段も分かっている。
自意識発露の目標は決まっていたワケだ。
そこで、納得できる写真を生み出すという、自己との戦い。
それが山上氏のいう「まなざしの解像度を上げる」ということんなんだろう。
「Photograph」は「真を写す」という「写真」とは違う。
光が描く絵・・・つまり「光画」というべき物。
写真という科学的「技術」を使って、光を捉え「絵」を描くのだ。
それが表現・作品としての写真、いや、光画なのだ。
そこに何を込めるか?
写真という仕組みを使って何を表現するか?
そこを突き詰めると、人の作品も見ることができるようになるのだと思う。
こういう「作品」は、撮る者と、見る者との感性の反応であり「ぶつかり合い」にならず、融合できれば「作品」となるが、成らざれば、タダのワケのワカラナイ写真、というだけの物になってしまう。
「どう撮れば良いか?」という問題と、撮った物に対して「これは作品となるのか?」という判断は自分では難しい。
自分が良いと思った装丁家に見ていただくという決断は良い物だったろう。
果たして、その「作品」は、評価されたのだった。
山上新平・オフィシャル・ウェブサイト https://shimpei-yamagami.com
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