お盆と供養と信心と・・

Z5D_9612.JPG

お盆のトーバをずっと書いているワケですが、書きながら、毎年この数に驚くのでありますよ。
お寺からの「お願い」は「希望制」なワケですが、中には、強制と思ってしまっている方も、若しかしたらいらっしゃるのかも知れません。

しかしながら、多くの方が、お盆の供養をされる。
お盆には、お寺に塔婆を書いて供養して、それで毎年のお盆を迎える、ということが、キチンと成されている、ということが嬉しいことであります。

「お盆とはこういうものだ」という認識が行き届いているということでしょう。
お墓には、お墓参りの方が沢山いらっしゃる。
皆、亡き人への思いがそうさせているのです。

亡くなった方は、生きている人の心の中にずっと生きています。
これは事実、です。
これが「もうひとつのあの世」です。
これは、宗教の違いも関係なく「絶対にあるあの世」です。

それがあるから、同時に、亡くなった人そのものも、どこかにいるどこかにいて欲しいという思いが「あの世」というものになったんだと思います。

縄文時代の遺跡である青森市の三内丸山遺跡では、亡くなった人は、道の両脇に順番に埋められていました。
身近なところに埋葬されていて、亡くなった人は「そこにずっといる」という感覚だったんだと思います。
それが、縄文後期になると1カ所に埋めるようになり、そうなると、そこが別世界となり、他界感というもの、つまり「あの世」という物に結びつくのだと思います。
日本人の心には、この縄文初期の「そこにずっといる」という感覚がベースになっていると思うのです。
やがてそれが「あの世」になり、仏教が入って来て「浄土」とかになっても、とにかく「どこかにいる」という意識があるのです。

「どこか」にいて、では何をしているのか?
・・・それは、生きている人を見守っている、ということ。

これが、日本人の死生観の基礎になっているのだと思えます。

「宗教観」の無い方に説明するにはこういうのが良いのかと思います。
霊も魂も無いのだ、とか、明治時代の中江兆民さんのようなことを仰るような方には、ね。

でも、生きている人の心の中にはずっといらっしゃるでしょ、と。

Z5D_9609.JPG

・・あぁ、いや、こういうことを書きたかったンじゃないんだ・・・・もっと軽い感じで・・・と思っても、書き出すとどういう方向に行くかワカラナイので・・・

日本人は特に亡くなった方を大切にしてると思う。
いや、それは世界共通のものだろう、いや、人類皆同じだろう。

しかし、日本人には「ご先祖様」という思いがある。
それは家族だった誰か、身近だった誰か、親戚・知人、そういう関係に限らない、自分の命に至るまでの命を繋いで下さった方々・・・
その命を思うのが「ご先祖様」。
その命のリレーに感謝すること。
それは、自分の命が決して自分一人の物では無い、ということに思いを馳せるということでもある。

どこまで遡れるだろう・・・?
ダーウィンの進化論が本当だとすれば、地球上の最初の命まで遡れる。
地球ではじめて酸素をつくったといわれるバクテリアが海で誕生したのが35億年前だという。
海にクラゲのような生物があらわれたのが7億年と言われている。

35億年だ。
それだけの命のリレーがあって、あなたもワタシもこの世にいるということだ。

Z5D_9615.JPG

「ご先祖様のバチが当たる」・・・?

ご先祖様はバチは当てない。
これは「ご先祖様のバチが当たるようなことをしてはいけない」ということ。
ここに「ご先祖様に申し訳ない」という考え方があるわけです。

亡くなった方は、生きている人を守って下さってる。
有り難い存在だ。

そして、自分まで繋いでくださった命に対して、悪いことをしてはいけない、という気持ちがおきる。
おそらくこれが「日本人の道徳心」の元になっていると思うのです。

亡くなった方はあの世にいる。
あの世にいて、生きている人を見守って下さっている。
ということは、いつも見られている。

どこかで誰かが見ていなければいい。
人に見つからなければ良い、ということではない。
人を超えた存在となった故人が、あの世からすべてお見通し。
だから悪いことはできない。

ご先祖様は祖霊。日本の神様。
そういう存在が見ているのだ。

例えば、スポーツの試合で頑張っている様子を、見られずに亡くなってしまったお母さんに見せてあげようと遺影を持って試合を見る。
「見てくれている」という強い思いがある。

亡くなった方は、どこかに、いる。

自分の心の中には、いる。
だから、どこかにいるのだ。絶対にいるのだ。

この思いがお盆に繋がるのだ。

この記事へのコメント