忘れた頃の仏教ネタです(^^)
仏教に「一切皆苦(いっさいかいく)」という言葉があります。
これは「世の中の一切はすべて苦なんだ」というように言われ、それが仏教の根本という感じになっているように思います。
しかし、そもそもこの「世の中はすべて苦なんだ」という解釈が間違っているんじゃないか?と思うワケです。
単純に、ンな訳なかンべよ、と思います。
楽しいことだって沢山ありますでしょ。
まぁ、楽しいことも、叶わなければ「苦しみ」となろう、というニヒリズム的な?・・・ですかね?
「もうね、世の中なんてね、苦しみだらけなんだよ」と思えば、ちょっとしたことでも幸せと思えたり、という俗っぽいことでもあろうか?
仏教的には、煩悩を断つには、拘りを捨てれば良い。具体型には、物を持たなければ良い、というような発想でもあるので、一切は苦しみである、という全否定から入る・・・?
・・・いや、ナンダカ違うように思います。
「一切皆苦」のワードで検索して出てきたいくつかのHPにある解釈をみると、例えば・・・
「一切皆苦」とは、文字どおりには「すべての存在は苦である」という意味です。
しかし、この短いフレーズには、生きとし生けるものが経験する苦しみの普遍性と、その苦しみを乗り越えるための深い洞察が含まれています。この教えは、仏教の基本的な見解を表しており、生命の本質としての苦悩を理解し、その苦悩から解放される道を模索することを促します。
「浄土真宗 慈徳山 得蔵寺」
・・・こういうような解釈が多いわけですが・・・
仏教の出発点は、「一切皆苦(人生は思い通りにならない)」と知ることから始まります。なぜ苦しみが生まれるのでしょうか。仏教ではこの原因を、「諸行無常(すべてはうつり変わるもの )」で、「諸法無我(すべては繋がりの中で変化している)」という真理にあると考えます。これらを正しく理解したうえで、世の中を捉えることができれば、あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になる――。つまり、苦しみから解放される、とお釈迦さまは説かれています。これが、目指すべき「涅槃寂静(仏になるために仏教が目指す"さとり")」です。
「日蓮宗ポータルサイト」
私はこの「思い通りにならない」という解釈が宜しいと思います。
しかし、この日蓮宗のサイトでは、この説明の下の図に・・・
上のように、すべてに「苦しみ」という解釈を載せていますので、この点はどうかと思いますね。
やはり、この解釈から離れられないのでしょうかね?
苦しみを生む因と果として、諸行無常と諸法無我があり、これを因として、果としての苦しみが生まれる、ということを言っている訳ですが、よくよく考えると「諸行無常と諸法無我」が「苦しみ」に直結するとは思えないのですが・・・
Wiki先生も参考にすると・・・
根本的な苦(ドゥッカ)を生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)の四苦とし、
生苦ー衆生の生まれることに起因する苦しみ。
老苦ー衆生の老いていくことに起因する苦しみ。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる。
病苦ー様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる仏教問題。
死苦ー死ぬことへの恐怖、その先の不安などの自覚。衆生が免れることのできない死という苦しみ。また、死ぬときの苦しみ、あるいは死によって生ずるさまざまな苦しみなど。
・・・と、やはり「苦しみ」という説明です。
しかし、これが「苦しみ」に繋がることなんて言われなくても分かるでしょう?・・・とも思います。
また「四苦」に次の4つを加えて「八苦」となります。
愛別離苦(あいべつりく) - 親・兄弟・妻子など愛する者と生別・死別する苦しみ。愛する者と別離すること
怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会う苦しみ
求不得苦(ぐふとくく)- 求める物が思うように得られない苦しみ
五蘊取蘊(ごうんしゅく) - 五蘊盛苦(ごうんじょうく)とも。五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならない苦しみ
ここでも「思い通りにならない→苦しみ」という解釈です。
しかし、八苦はなんだか「四苦」に取って付けたようなニュアンスを感じます。
「苦しみ」という程のことではないように思えるのですが・・・
さて・・・
「一切皆苦」というのは「四法印」、即ち「諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静」のひとつ。
●「諸行無常」
全ての物は移ろいゆくものである。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
●「諸法無我」
「諸行」と「諸法」はどう違う?
「諸行」は目に見える現象と言っていいか?
「諸法」は目に見えないものも含めてのあらゆる事象か?
「無我」が難しい。
「我」の解釈は色々な変遷もあり、一概には言えない・・・ですが。
●そして・・・「一切皆苦」
●「涅槃寂静」
煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるということ。
Wiki先生は「苦」について以下のように仰る。
仏教における苦(く、巴: dukkha、梵: दुःख, duḥkha、蔵: sdug pa)とは、苦しみや悩み、精神や肉体を悩ませる状態を指す。対義語は楽。
「ドゥッカ」の「ドゥッ」(duḥ = dus)は、「悪い」という意味、「カ」(kha) は「空間」、「穴」の意味である。
ウィンスロップ・サージェント(Winthrop Sargeant)によれば、「ドゥッカ」という言葉は車軸が真ん中を通っておらず、乗り心地の悪い様に由来するという。
サージェントによれば、ドゥッカとは、もともと「悪い車軸の穴」というような意味をもち、転じて「不快」を意味した。
「苦」は、お釈迦様の「初転法輪」に説かれたとされる「四諦」よる。
「苦諦(くたい)」・・・迷いのこの世は一切が苦であるという事実
「集諦(じったい)」・・苦の原因は煩悩・盲執(もうじゅう)求めて飽かない愛執であるという事実
「滅諦(めったい)」・・苦の原因の滅という真実。
無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ
「道諦(どうたい)」・・悟りに導く実践という真実。悟りに至るためには八正道によるべきであるということ
「苦諦」についてWiki先生は・・・「迷いの生存が苦であるという真理。苦しみの真理。人生が苦であるということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿とされる。」・・・と仰る。
この世のすべては「苦」であり、それは煩悩・盲執によって生じ、その原因を滅すれば、悟りに至る・・・
これも「苦しみ」というより「思い通りにならないこと」というように思える。
「この世は一切が苦しみ」ということはオカシイと思うのだ。
私は四苦・八苦として上げられているものは「苦しみ」というようなものではないと思います。
だいたい・・・四苦の「生」が良く分かりません。
生まれに関わる苦しみ「生まれてくる苦しみ」と言う人もいますが、いやいや、体験的には生まれる時に苦しいのはお母さんで、当人は分からないことです。
そこだけ「お母さん」になるのもおかしなことです。
そもそも、それらが「苦しみ」であるとか、言われなくても分かりきったコトだろうと思うわけですよ。
それが「教え」である、ということもおかしなことだと思いますね〜。
四諦でみれば、集諦にて「無明・迷い」の「元」に気づき、それを滅諦・・無くすることで、道諦→悟りに至る、ということ。
「苦諦」は「楽」もちょっとズレれば「苦」となろう、ということで楽も含む、という見方もできるとは思いますが・・・どうもしっくりこない。
これは、初めに述べたように「苦」を「思い通りにはならないもの、こと」と考えるのが宜しいと思うわけです。
思い通りにならないから、苦である、という見方がよろしい。
そうすれば「四苦」の「生」は「生まれること」で、例えば、どういう環境に生まれるか、とか、そもそも、生まれるということすら選べないことです。
子は親を選べない、とよく言いますが、まさにこれ。
身分制度が厳しいインドでは、生まれの身分は生まれてしまったらどうにもならなかったことです。
「出家」というのは、コレを解決することで、出家は「俗世を捨てる」ということで、出家することで、身分差は捨てられた、というものだと思います。
これはどうにかなっても「老・病・死」はどうにもなりません。
これは「苦」というより、このこと(何をどう頑張ってもどうにもならない)を認識せよ、ということではないか?・・・と思うのです。
「八苦」と言った時の「後の四つ」など、正にコレで、どうでもいいようなことだと思えます。
これは「こういうことは思い通りにならないのだからシャ〜ナイ」と思え、というのが「苦」というものの「教え」なのではないか?、と思う私なのです。
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