仏教への誤解・その6(葬式佛教)
平安時代、僧侶は天皇から認可していただく官僧で、故に、死穢を避けねばならず、僧でさえもキチンと葬送をして貰えないのが一般的だった。
これはあまりにも惨めなことではないか、という思いがあり、お互いに葬送をしようという意識が生まれた。
天台僧の間に「二十五三昧会」ができる。
比叡山横川(よかわ)の源信僧都が986年に組織したという。
比叡山内横川にあった首楞厳院で、25人の僧が結集した。
臨終作法が書かれている。
無常堂を寺域の西辺に建て、堂中には金箔を塗った阿弥陀像を西向きに安置する。
仏像の右手をあげ、左の中に五色の幡を持たせ、幡の端は地に垂れておく。
病者があればこの堂にともなって、仏像のうしろにすわらせ、左手に幡の端をとり、佛にしたがって極楽にゆく心持を表させ、看護の同志は焼香散華して病者を荘厳する。
・・・というような取り決めができ、お互いに葬送をすることを約束し、極楽往生を希求する念仏結社であった。
月の15日ごとに僧衆25名が集結して念仏を誦し、極楽往生を願った。
彼等の「発願文」に、善友の契りを結び、臨終の際には相互に扶助して念仏することを記していた。
『日本往生極楽記』の撰者でもある慶滋保胤が起草した「二十五三昧起請」には、
1,毎月十五日に念仏三昧を修すること。
2,光明真言を誦して、土砂加持を修すること。
3,結衆は規律を厳守し、叛いた者は脱退させて、代わりの者を補充する。
4,別所に阿弥陀如来を奉安した往生院を建立し、病んだ結衆はそこに移す。
5,病んだ結衆を往生院に移した時は、二人一組となって昼夜の別なく従い、一人が看病、一人が念仏を担当する。
6,花台廟と名づけた結衆の墓地を定め、春秋2回、集まって念仏会を修する。
7,ひたすら西方極楽浄土を念じ、極楽往生を念ずる。
8,結衆に欠員が出ても、残った結衆が修善によって、先に往生した結衆との縁を保たなければならない。
・・・ということが書かれている。
かなり切実な往生への気持ちが込められている。
これが、後の佛式葬儀への考えの基礎になっているように思う。
無常堂(往生院)では、香華・幡・天蓋などに囲まれて死ぬことができる。
二十五三昧会では、さらに、墓所を決めて「花台廟」として、卒塔婆を建てて陀羅尼を込めておき、結衆が死んだら三日以内にそこに葬る。
死者は結衆が協力して葬り、そこで念仏して帰り、終夜念仏する、というように、葬送の方法を決めていた。
逆に考えれば、ここにいたるまで、まともな葬儀式のようなものは無かったということでもある。
ただし、これは、京の都での話で、それ以外の世界では色んな方法で弔っていたのだろうと考えられる。
縄文時代のお墓にも、副葬品のようなものがあったようだ。
弔いというきもちはあったはずなのだが、それは分からない。
鎌倉時代になると、念仏講衆、光明真言講衆、六道講衆といった葬送共同体というようなものが武士や有力者の中にできて、五輪塔や板碑が作られたという。
そして、民衆の間にも、葬送を求める意識が生まれてくる。
『発心集』に・・・
ある僧侶が、日吉神社に100日参拝の願を立てて参っていたが、80日を過ぎた頃、参拝の帰り道で、母親の葬送ができずに泣いている女性に会った。
哀れに思って葬送をするが、次の日、穢れを憚りつつ参拝したところ、日吉神が現れて、僧の慈悲を褒めて参拝を認めた、という話がある。
ここに、葬送の仕方があったのだろうということと、葬送をしたいという民衆の気持ち、禁忌を恐れず葬送をする僧、そして、その慈悲心を褒め参拝を許す神様、ということが書かれている。
この「葬送をできずにいる人」と、それを哀れに思い穢れを恐れずに葬送をする僧と、それを許す神、というこれに似たような話がいくつもできる。
こういう葬送を望む気持ちに応えたのが、鎌倉時代の遁世僧だったという。
遁世僧というのは、官僧の身分を捨てて佛道修行に励む僧を言った。法然・親鸞・日蓮・道元・栄西、あるいは明恵・叡尊なども遁世僧だった。
♪京都大原三千院〜〜とか、♫栂尾高山寺〜〜などは「恋に疲れた女〜」が行くのではなく、世俗化する佛教界に疲れた僧が隠遁するところだったので、それを「恋に疲れた女」としたのは、さすが天才・永六輔さんであります。
やがて、そういう遁世僧による教団ができるようになる。
そして、極楽浄土と阿弥陀信仰が広まる。
ここで「あの世」が仏教的な別世界、というイメージが一般の中にも浸透してくるのだろうと思える。
末法思想というものが大きな影響を持っていた。
即ち、お釈迦様が説いた正しい教えがあり修行して悟る人がいる時代(正法)1000年が過ぎると、次に教えはあっても悟る人がいない時代(像法)1000年が来て、その次には教えのみが残り修行する者もいなくなり悟りが無くなった時代(=末法)が来る、とする。
日本では1052年が末法元年とされた。
このお釈迦様がいらっしゃらない「末法濁世の衆生は阿弥陀仏の本願力によってのみ救済される」と仰って、法然上人は「称名念仏による救済」を説かれた。
この後、未来佛である弥勒菩薩が現れるのは56億7000万年後である。
その間の私たちはどうなるのか?・・・という答えが阿弥陀様で、その間は、阿弥陀様に救いを求める、というもの。
その前に「兜率天信仰」というものがあって、次の仏陀に成ることが約束されている弥勒菩薩のいらっしゃる兜率天に往生する(弥勒上生)というもの。
これは、弘法大師様の著作にも書かれていて、お大師様は弥勒上生信仰を持っておられたのだろうと思える。
しかし、兜率天に行くためには修行が必要で、一般人は難しい。
そこで、一旦阿弥陀様へ極楽往生を願い、その後、弥勒菩薩が如来となるべく降りて来られる時に救っていただこう、という信仰だったのだと思う。
法然上人は、兜率天信仰はキッパリ否定して阿弥陀様の極楽往生のみを説いてるが・・・
今の大河ドラマの中心を成す藤原道長が書き、金峯山に埋めたとされる経筒(法華経・阿弥陀経・弥勒経・般若心経が入っていた)に書かれた願文には・・・
・・・法華経は、釈尊報恩、弥勒値遇、自身の無上の悟りを得るなどのために写経した。
阿弥陀経は臨終に際して身心を散乱することなく、阿弥陀佛を念じ極楽世界へ往生するためである。
弥勒経は、90億劫の生死の罪を除き、無生忍を証し、慈尊(弥勒)の出世にあうためである。
また、慈尊成仏のときは、ワタシは極楽世界から佛所に詣でて、弥勒の法華会を聴聞し、成仏の記を受けよう・・・
ということが書かれていて、弥勒信仰と阿弥陀信仰が混じっているようすが分かる。
このあたりで、死後観のようなものが定着したのだろうと思える。
それは、死後は別世界へ行く。
それは佛の世界である。
それまでは、あの世は、この世の延長のようなものだった。
源信さんの『往生要集』にて、地獄と極楽が説かれ、死後の世界がこの世の延長的ではあるが、その行いによって大きく二分されるということになった。
それはこの世の延長ではなく、別世界、というもので、それが佛教によって、善い方向へと導かれる、という方法の提示、ということになる。
それが「葬儀」である。
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