例えば、キリスト教は、イエス様を救世主と信じる宗教であると言えると思う。
イスラム教は、アッラーへの絶対的な帰依の宗教とも言えるし、ユダヤ教は契約をしたユダヤ民族だけが救われるという宗教と言うと、それは違うと言われるだろうか?
何が言いたいかというと、「・・・教」と言うものの「教え」というものが見えてこない。
いずれも絶対的な「神」の存在と、その下にある人間が帰依するもので、人間と神とは交わるなどということは無い。
極めて一方的な上下関係であり、下から神を「信じる」ということで成り立っている。
神は絶対であり、人間とは隔絶された存在でもある。
佛教は確かに「佛の教え」と言える。
そして、佛に成れる可能性を含んだものである。
初めは、お釈迦様は、尊い存在は形に表さず、言葉も文字にしなかった。
別格の扱いだった。
しかし「仏陀に成れる」という思想が生まれてくる。
お釈迦様は人間だった。人間だったお釈迦様が仏陀に成られた。
同じことをすれば自分も仏陀になれるのではないか?、と思う、大乗佛教ができてくる。
悟りとは何か?、お釈迦様の心はこうだったのだろう、という思考がされ、恐らくはそういう中で、お釈迦様の姿はどんなだったのだろう?、という思いが生まれ、それを形にする、ということがされる。
経典と佛像は、双方とも紀元前後にできたという。
仏像はガンダーラあたりで、ヨーロッパのギリシャ彫刻の影響でできたのだろうと言われている。
ギリシャ彫刻が人間の肉体の理想像だとすれば、佛像は、精神性による尊さを形にしたのもだと言えよう。
この精神性は、日本に来て完成されたのだと思う。
ひとたび姿が刻まれると、人々はこぞって拝むようになった。
お釈迦様は亡くなってしまったが、その「教え」は在り続ける。
それはこの世の真理だから。
教えは在る→お釈迦様は常にいらっしゃる→如来常住、となる。
肉体を持ったお釈迦様(=生身の佛陀)は亡くなられたが、教えは残っている。
→お釈迦様いつもいらっしゃる。
→理念としてのお釈迦様(=法身の佛陀)という思いができてくる。
姿形は無いが、真理の姿というようなもの。
これは普遍的なもので、故にどこにでもある。
最終的に、これは、密教における大日如来というイメージになるのだと思う。
この中で、佛陀はお釈迦様だけではない、という思いも出てくる。
佛教がインド中に広まり、その土地・民俗の「神」のような存在が佛教に取り込まれてくる。
これが、諸仏・諸菩薩となる。
色々な神様が取り込まれたのだと思う。
「神」とか「明王」などはそうだろう。
もしかしたら・・・阿弥陀様はイエス様かも知れない。
西の方(=ヨーロッパ)にものすごく尊い方がいらっしゃる、というのが組み込まれたのかも知れない。
菩薩は、如来になる前の姿。
そこに人々は気持ちを寄せる。
如来様は完成された存在だ。
お釈迦様は、無数とも言える前世の善行(→途方もない慈悲の心)を繰り返されて佛陀に成られた。
その途中の姿が菩薩様だ。
そこに自分の成仏を託して拝む。
「菩薩」のサンスクリット「ボディ・サットバ」を「悟りを求める人」と訳すと大乗佛教になるのだと思う。
これを「悟りを本質として持っている者」と訳すと密教になるのだと思う。
仏陀に成れるのは「悟りを本質として持ってる」からだ、という思考が生まれる。
本来、本質として「悟り」を持っているから成れる。
「菩提心」がそれである。
皆、菩提心という仏陀に成る種を持っている。
ただ、それに気づかないだけだ。
「無明」という泥の中に菩提心は隠れている。
泥の中から真っ直ぐに伸びてキレイな花を咲かせる蓮の花が仏教を象徴するものとなる。
ここで「仏陀に成る」のではなく、我々は既に「仏陀である」という思想が生まれる。
「密教」の誕生である。
この記事へのコメント
タロウカジャ
引き続き時々で結構ですのでお話をお願いいたします。
三日ボーズ
着地点はその辺になる予定でしたが、書き始めたら何処へ行くのか分からなくなってきました。
(^^)