仏教への誤解・その3(大乗佛教)
お釈迦様の佛教から堕落した今の佛教・・・ということが、よく語られる。
「X」などで、何も知らない愚か者が、何となく持ってるイメージで分かった様なことを言ってる場合がほとんど。
お釈迦様の佛教の何たるかを知らないし、知る気も無いのだろうが・・・
ただ、教科書程度の稚拙な認識で言ってるだけの者は多い。
「僧侶の堕落」という点では反論の余地はないが、お釈迦様の佛教こそが佛教だ、という稚拙な「原理主義」的な物言いは、どうかと思うヨ。
研究者の中にも、案外そう言うヒトは多い。
経典等の研究ばかりしているからそう思うのだろうと思う。
そういう人は佛教を現実の中で捕らえていない。
ただの学問でしかない。
私らはその「ハザマ」にいる、という感じがする。
現実の中の佛教、とでも言える環境だ。
「お釈迦様の佛教」は確かに在る。
しかし「その後」の佛教の方が膨大な量なのだ。
これを如何とする?
お釈迦様の頃の佛教は、自分が悟って苦を離れるというもの。
勿論、お釈迦様がされたように、 後の修行者も一般の方から生き方の相談をされれば、アドバイスはする。
お釈迦様にはふたつの徳目がある。
それは智慧と慈悲。
智慧=悟り、慈悲は法を説く、ということ。アドバイス。
これは佛様全般に言える。
故に、仏像の三尊形式が成り立っている。
真ん中に如来様、両脇に菩薩様。
真言等では如意様は足を組んで座っておられる。
それは動かない、ということ。
如来常住、だ。
両脇の菩薩様が、智慧と慈悲を我々の元へ届けて下さる。
如来様の左(向かって右)が、慈悲の佛様(蓮華を持つ)で、右が智慧の佛様(剣を持つ)。
だから、お釈迦様の頃からの修行者は、法は説くのだが、飽くまで自分の悟りを目指す。
そういう修行者は「お釈迦様」以前からもいて、周りの人はそういう修行者に施す文化が今に至ってもある。
支えることが「徳を積む」という考えができていてのこと。
これまでは、お釈迦様の教えはある、というものだった。
つまり「佛は在るもの」というのが佛教(小乗佛教)だった。
お釈迦様の教えを文字にするようになってからか、それ以前なのかも知れないが・・・
・・やがて、この教えを説かれたお釈迦様のことを考えるようになるのだろう。
お釈迦様とはどういう方なのだろう?、と。
それは、お釈迦様は何故にお釈迦様に成られたのか?・・・ということである。
そうして『ジャータカ物語』のようなものが生まれる。
お釈迦様の前世の行ないが説かれ、途方もなく長い間の生まれ変わりを繰り返すなかで、命を捧げるような激しくもある慈悲の行ないを繰り返して、生まれ、この世で仏陀に成られた、ということ。
こうして、不可能に近いような道だけれど、とにかく仏陀になる道筋ができる(わかる)。
これによって「自分にも佛になる可能性が無いわけでは無い」ということになる。
今生では無理でも、いずれの時にかこの身も佛に成れるかも知れない。
ここで、佛とは「成るもの」だという意識が生まれてくる。
これが大乗佛教の成立である。
これとほぼ同じ時期に佛像が生まれる。
それまでは、唯一の尊い存在であるお釈迦様を人の姿には描かなかった。
アショーカ王が建てた仏塔のレリーフには、まだ、お釈迦様の姿を描くことはされなかった。
佛像ができて、経典ができる。
ここから大乗佛教が始まったと言って良いと思う。
『般舟三昧(はんじゅざんまい)経』という経典がある。
『諸仏現前三昧(しょぶつげんぜんざんまい)』とも言う。
これは、心を集中することによって諸仏を眼前に見ることができるという境地を説いたもの。
現存する仏典の中では、阿弥陀仏およびその極楽浄土について言及のある最古の文献であるとも言われている。
浄土的には、阿弥陀様は宝蔵菩薩が成られたのだから実際にいらっしゃるノダ、という風になってゆくが、心の中に佛を瞑想する形が元々だったということだろう。
こうして、佛様は瞑想にて思い描くものだったが、だったらそれを具体的に絵にしてしまえば良いではないか、と言ったかどうかは知らないが、絵や彫刻にするようになった。
それは人の姿をしていた。
それは、お釈迦様が人間だったから、だ。
ここから色んなお経が書かれ、それに連れ、色んな佛様が描かれた。
お釈迦様の仰ったことから、その言葉の意味を考え、哲学としての深み・広がりを増していったのだ。
そこで色々な功徳が説かれ、相応しい佛様が描かれる。
佛教が広まった地域の神様を取り込むようなこともあったろうと思う。
これが大乗佛教。
佛教は、ドンドン膨らんで行くワケですな。
安直な(実は何も知らない)「佛教原理主義」的見方をすれば、この段階で既に佛教では無い、ということになるワケですな。
でも、大乗佛教の思想ができるまで500年ほど。
そこからが2000年ですよ。
佛教とひとくちに言っても、こういう流れがあるということです。
単純に「シャカの教え」というものではありません。
思想的広がりがあるということです。
これも佛教の特徴で、他の宗教には、これほどの展開・広がりというものはありません。
もともとの伝承による教えが、これだ!、という決定的なものが無かったが故に、そこを探るように深みと広がりが増したのだと思います。
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