仏教への誤解・その2(大乗と小乗)
「X」などで、仏教は釈迦の教えだろう、と言い「それを広めるのがおまいらボーズだろ」と言う輩がいる。
そういうのは、だいたいが僧侶を罵る。
その材料として「本来のお釈迦様の教えと違うだろう」ということを言うわけだ。
そういう輩はだいたい、何がお釈迦様の教えか、というようなことは元より、宗教の何たるかを分かって無いのがほとんど、というか全部。
まったく深く考えてはいないので、何を言っても無駄・・・なので、ワタシは無視する。
昔の佛教を「小乗仏教」と言っていた。
今は、侮蔑するかのようなので「上座部佛教」とかいうようになってる。
しかし「小乗」というのは、分かり易い言葉ではある。
ここでも誤解があるが、大乗と小乗が別にあって、大乗が小乗を蔑んでいるというワケでは無い。
別にあるのではなく、大乗の中に小乗がある、というもの。
大乗と言っても、中に小乗がある。
高校生が小学生を経ているようなものだ。
大乗の僧も、小乗の戒を受けて僧侶となる。
これで勘違いをしたのは天台宗の最澄さん。
大乗佛教なのだから、大乗戒でいい、と思って大乗戒壇を作ったが、これは日本のローカルルールで、グローバルスタンダードでは無い。
これで出家しても、インド・中国に行けば出家者という扱いにはならない。
最澄さんの大乗戒壇は中国に於いては認められておらず、確か道元さんは中国で戒を受け直したんじゃなかったか?
小乗は出家者だけが乗れる舟で、大乗はそうでは無い人も乗れる舟、という言い方もできると思う。
お釈迦様のころの佛教は、お釈迦様のように得度者が法を説くことはあっても、基本は、得度者が楽に生きる(→修行する)タメのもの。
すべての人が出家したら、人間は滅ぶ。
出家するというのは「生老病死」の「生苦」を断つということ。
「生老病死」を「四苦」というが、苦しみではなく「思い通りにならない」ということで、思い通りにならないから苦しい、という意味で「苦」という。
「生苦」というのは産みの苦しみではない。
生まれるときに苦しいのはお母さん。当人は分からない。
生まれること、生まれる所(身分など)は思い通りにならない。
親は選べない。
その前に生まれるということも選べない。
気がついたら「私」になってる。
お釈迦様は一国の王子様だったが、身分が低い者はそれ故に苦しむ。
その「家を捨てる」ということによって、身分故の差別や苦しみから逃れるのを第一とした。
だから、出家者は社会から外れるのであって、あくまでも一般人とは別なる存在。
その世界が小乗仏教の世界。
この辺の意識は戦国時代あたりの日本にも強くあった。
戦国時代の大河ドラマを見ていると、余程都合が悪くなった時に「出家させる」ということがある。
次回の『光る君』でも、花山天皇の「出家」が描かれるそうだ。
出家するということは、俗世を離れるということで、要するに「この世の人では無くなる」ということの故に、争い事始め一切の俗事から離れられる、ということでもある。
鎌倉時代から後になると、死者の供養というテーマが重要になってくるから、僧侶の立場も重要ではあった。
僧侶の「俗世を離れた存在」という意味合いも、江戸に入るまでは極めて重要だったものと思う。
「お釈迦様の教え」とは出家者のためのもの。
そこからの広がりが無く、それでは斯様に佛教は広まらなかった。
お釈迦様が亡くなられてから500年くらいの間は、信者は、お釈迦様が仰った「生き方」を暗唱して生きていた。
やがて、それを文字にするようになって、経典ができる。
やがて、そこに考えたことを加えるようになる。
お釈迦様の思い、悟りを探ろうとする。
それまでお釈迦様の教えは「在るもの」だったが、それを「求める」ようになる。
お釈迦様の「悟り」とは何か?、ということを探る長い旅が始まるのだ。
お釈迦様の「悟り」ということが何処まで伝わったのだろうか?
お釈迦様の教えの基本が「四諦八正道」であることは倫理社会?の教科書にも確か出ていたと思う。
お釈迦様は、自分の城から出て「生老病死」を知り、その「苦」から逃れる術を探して出家される。
その結果得たものが「四諦八正道」である。
「諦」とは「道理を明らかにする」という意味であって「真理」や「悟り」ということでもある。
お釈迦様が説かれた四つの真理「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」。
「苦諦」は、現世は「生老病死」の四苦と、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五取蘊苦の四苦を加えた八苦であるということ。
この世の「苦」の原因は、煩悩であり・妄執である。求めて飽くことがない心があり、無常を認識できないからだと述べている のが「集諦」。
「滅諦」とは、無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地=「涅槃」につながるということ。
その「涅槃」に到達するための実践、修行法が「道諦」であるということ。
「道諦」をさらに詳しく説いて、八つの修行法も定めた。
これが「八正道」である。
1,正見(正しい見解)・・・四諦の真理などを正しく知ること。
2,正思惟(正しい決意)・・正しく考え判断すること。
3,正語(正しい言葉)・・妄語(嘘)を離れ、綺語(無駄話)を離れ、離間語(陰口、仲違いさせる言葉)を離れ、粗悪語(誹謗中傷、粗暴な言葉)を離れること。
4,正業(正しい行為)・・殺生、盗み、非梵行(性行為)を離れること。
5,正命 (正しい生活)・・殺生などに基づく、道徳に反する職業や仕事はせず、正当ななりわいを持って生活を営むこと。
6,正精進(正しい努力)・・「すでに起こった不善を断ずる」「未来に起こる不善を起こらないようにする」「過去に生じた善の増長」「いまだ生じていない善を生じさせる」という四つの実践について努力すること。
7,正念(正しい思念)・・四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態でいること。
「身、受、心、法」について、それぞれを正しく観つづけ、正知をそなえ、気づきをそなえ、世における貪欲と憂いを除いて住む。
8,正定(正しい瞑想)の修行のこと。
この四つの真理(四諦)を熟知し「八正道」を実践すれば、一切の苦しみから逃れられる。
この実践法を知ることが「悟り」なんだと思う。
この実践をしながら生きて行くのが佛道修行者ということなんだと思う。
「悟り」というのはこれで良いのではないか、と思う。
これを教えることが『遺教経』にある「度する」ということで、これを教えられて修行する生き方が佛道だったんだと思う。
あくまでも出家修行者の「自分のため」にあるもの。
だから、これは、一般ピープルとは縁遠いものとなる。
故に小乗という。
これでは広がりをもたないことが分かると思う。
これが佛教の基本中の基本ということだ。
これを今説いても、ほとんどの人は、このように生活することはできない。
「佛教ってのはシャカの教えを広めることだろ?」とか言ってる輩は、これを知って何と言う?
佛教の初期は、この教えを以て生きていた。
教えの元はお釈迦様だけだった。
しかしお釈迦様の悟りを求める哲学が発展しお経は沢山作られ、佛様も増えるノダ。
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