仏教への誤解・その1(シャカの教え)

『週刊ダイヤモンド』による「ダイヤモンド・オンライン」に・・・
「葬式にお坊さんを呼ばない人」が増えている理由」という記事があった。

最近のネット記事によくある「タイトルが中身を示していない記事」である。
「釣りタイトル」が当たり前となっている。
本屋さんがコレをやっていいのか?と思うが・・・
大竹 晋『悟りと葬式 弔いはなぜ仏教になったか』(筑摩書房)の一部を抜粋・編集したものです。
とある。誰かが抜粋したもので、書き手の力が不足してるのだろう。

もう何度も書いていることだけれど、また、書くか・・・と。
例えば「X」にも、必ずと言っていいほど、定期的に、という感じで、ボーズを、いわゆるひとつの「ディスる」という輩が出てくる。

この本の書き手も、視点がズレている。

ちなみに・・・
宗教を入れないものを、本来は「告別式」と言った。


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まず、佛教を「シャカの教えだろ」という輩がいる。
そのまえに「お釈迦様」だろ、と言いたい。

確かに「佛教」と書けば「佛の教え」で「お釈迦様の教え」ということになる。

恥ずかしながら、初期の佛典を読み通したことが実は、無い。
よくわからないのだ。

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まず「悟り」というものが分からない。
お釈迦様は、35歳で悟られて、その心持ちで話された。
生き方を説かれた。

まず、お釈迦様が在世の時には、何かあればお釈迦様に尋ねれば良かった。
しかし、亡くなられてしまったらそれができない。

お弟子さんたちは集まって、自分たちが「聞いたこと」をまとめる。
「私はこういうことを聞いた」というものを集めてお経ができた。
故に、お経の始めには「如是我聞(にょぜがもん・是の如く我聞けり)と書かれている。

しかし、当初、というか、500年くらいは文字にされなかった。
お釈迦様が亡くなられたのは紀元前543年というが、そこからしばらくは暗唱していたのだ。
お釈迦様が話されたのは主に「生き方」だった。
それは修行の仕方だと言っていい。
悟りは決してゴールでは無く「生き方」を示したものだった。
お釈迦様は、悟られた心持ちで、それを説かれた。

暗唱している時には、お経に変化は無かったものと思う。
リズミカルな言葉になっていたのは暗唱し易いようにということで、そういう変化はあったろうが、内容はほとんど変わっていなかったのだとおもう。
暗唱だと変わってしまいそうな感じもするが、暗唱することに心血が注がれ、つまりは「変えない」ということが重要で、変えるという意識は起きにくいのだろうと思う。

それが、紀元前後に文字にされるようになる。

アショーカ王の碑文である。

アショーカ王は、力を持ってインドを制圧するが、後に、それを後悔し「法(ダルマ)の政治」というものを行なう。
アショーカ王の時代になってから10年、お釈迦様に縁のある地を回り、また自らの命じた「法の政治」が実行されているのかどうかを確認してまわる「法の巡幸」をする。
そして釈迦の入滅後立てられた8本の塔のうち7本から仏舎利を取り出して新たに建てた8万4千の塔に分納したと伝えられる。

8万4千は大袈裟だが、自らの過ちを繰り返さないようにと、石柱や摩崖(岩)などに「詔勅」を刻ませた。
紀元前3世紀頃とされる。
これは、インドに現存する文字資料のうちほぼ最古のものであるという。

ここにお釈迦様のレリーフがあるが、お釈迦様自身は描かれていない。
お釈迦様がおられるべき所に法輪や菩提樹が描かれている。

聖なる姿を描くことはされなかった。
聖なる言葉も文字にはしなかったが、この後、紀元前後にお釈迦様の教えも文字に書かれるようになる。

時を同じくして大乗仏教と呼ばれる流れができてくる。

文字に書くようになると、お釈迦様の言葉が脚色されてくる。
お釈迦様が仰った言葉をベースにして、この言葉には、こういう思いがあったのだろう、と想像を膨らませて書く。
そこで、哲学的な広がりを持って広まって行く。

そうして、多くのお経が書かれた。

佛教は「お釈迦様の教え」ということだが、これはある意味正しくはない。
我々が求めるもの、探るべきものは「佛法」である。
「佛教」ということばは明治以降のもので、それまでは「佛法」と言っていたとどなたかに聞いたことがある。
我々は、佛法を求める。
その点では「お釈迦様と同じ」ということができる。
我々はお釈迦様が得たものと「同じもの」を求めている、と言える。

お釈迦様の教えは「こうして生きなさい」ということで、それが教え。
ただ、その真理が見えない。
お釈迦様は「悟りの何たるか」と仰っていない。

それは未だに分かっていないのかも知れない。
それを探っているのが佛法なのだ。

お釈迦様が見つけられた「法」を求めるのが佛教の修行者なのだ。

そう「悟り」がゴールではない。
その心持ちで生きて行く。
生きて行くのは修行である。

それが佛法なのだ。




この記事へのコメント

  • タロウカジャ

    近年人は、縁を切ることを何とも思わくなっているようです。
    煩わしいことから出来るだけ離れて縁を切る。
    口当たりの良い方とのみお付き合いをする。
    夫婦になっても煩わしいから子を作らない。
    これでは、ご自身の棺桶の蓋がされるときは大変寂しいものだと思います。
    2024年03月05日 01:22
  • 三日ボーズ

    当方のような田舎ではまだまだ「組内」だの、昔の部落、今の自治会の繋がりをもっていますし、葬儀もそういう組織の運営の名残はありますが・・
    今は、とにかく「核家族」が増えたこと、その大元が団塊の世代で、この方々は、学生運動の核になったくらいで、個人と権利・自由という思想がベースにあり、家を建てても佛壇・神棚はおかなかった。
    その子、孫も、すぐに親元を離れ、当然のように核家族を作っています。
    宗教も無く、文化の伝承も無く、繋がりの無い社会になってしまっている、という感じですね。
    2024年03月05日 06:14