ある先輩僧侶の本葬儀。
密葬は本堂にて親族・法類だけで行われ、本葬儀はホール。
本堂が小さく、駐車場も狭い場合、これからは、ホールという選択肢もあるだろう、と思う。
我が出身校・作新学院で教員をされていた方で、ワタシがいた時に学院にいらっしゃったはずだが、記憶に無い。
・・・というか、記憶が混濁していて分からない。
我が精神の一番クズだったとき故・・・
その後、教区の集まり等々でお顔は拝見していたが、高校の時の先生と一致しなかった。
息子さんには、我が息子が多氣山にてお世話になっている。
多くの僧侶が集まって、きちんと職衆(式衆)はいても、当然参列した僧侶はみな声を出す。
30名以上はいたであろう僧侶の読経は迫力がある。
それに混じって自分も声を出す。
読経・声明に包まれる感じが心地良い。
つい、自分の葬儀ということも想像する。
自分は、どう送られるのだろう?
泣いて下さる方がいらっしゃれば・・・うれしい。
自分もこうやって送られたいものだ・・。
自分は惜しまれて逝くのだろうか?・・・大丈夫か?、自分。
参列された檀家さん等、一般の方は、こういう読経を聴くことは無いだろう。
午前中の本葬儀参列を終えて、急ぎ戻って、近くの葬祭ホールで檀家さんの葬儀。
以前、ウチで御詠歌をやっておられたかただった。
御詠歌の免状が飾られていた。
信仰篤く、あちこちの札所巡りもされ、富士山も登ったという。
御朱印帳が何冊も置かれていた。
お別れの時、御朱印を皆で棺に入れている。
バラのがあったのか、バラしたのか、皆でご遺体の上に並べるようにして置く。
広げて置いたり、ご遺体の上が御朱印で一杯になった。
「おいずる」が有れば着せてあげたいところ。
どうだったんだろう?
それは聞かなかったが、札所巡りをしていれば「おいずる」はあったのではないだろうか?
それを着せてあげるのが本筋。
葬儀社の用意する「模様が入った白衣」を着ていたようにも見えたが「おいずる」があれば着せてあげたい。
もともとそのための「おいずす」なのだから。
遍路・札所巡りの装束は「死に装束」。
「死んだ後の前倒し」で回る。
死出の旅路が大変だから、生きているウチに前倒しでやっておくと死んだ後の旅路が楽になる、という信仰が、おそらく江戸時代に流行った。
それが札所巡り。
だから、死に装束で回る。
そこに御朱印を押していただき、死んだときにはそれを着せて貰う。
それを着ていれば死出の旅路も安心。
その「おいずる」の代わりに御朱印帳を入れて貰う。
そういう場合は、神社の御朱印が入っててはいけない・・・というもの。
だから、神社の御朱印はスタンプラリーでも良いが、お寺のは、そういう目的もあるということだ。
・・チョイ待ち、ということは、お迎えに来て下さる浄土系では遍路・札所巡りに、そういう意味は持たない、ということか?
(要確認、だな)
父の時には、父の撮っていた花の写真で棺を一杯にした。
自分が撮った花の写真に囲まれて幸せそうにも見えた。
信仰篤く、御詠歌を唱え、熱心に札所巡りをしていたおばちゃんも、御朱印に包まれて幸せそうにも見えた。
そうしてあげられた家族・親族のみなさんも、良い形、良い気持ちで送ることができたんだと思う。
お婆ちゃんの信仰の結実とも思う。
キチンと御朱印の意味・意義に合ったことをして、お婆ちゃんの気持ち通りになって、実に良いお別れだ、という気分になれた。
僧侶の迫力ある読経も、信仰の力と思う。
一所懸命唱えることで送る。
1日に、このふたつの葬儀を終えて・・・「送れた」と思える、満足感と安心感のようなものがあった。
「信仰」というものの有り難さを感じた、良い日だった。
この記事へのコメント
つるつる
三日ボーズ
それが、遺品整理の時にタンスの中からでてきて「これはどうすればいいでしょう?」と持って来られる方がいたりします。
ある葬儀社では、葬儀の式場のロビーに飾ってあったりしてね〜(^^)
「それ、着せなきゃだめでしょ」って〜〜〜(>_<)