「祈る声」雅楽・声明・薩摩琵琶

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日本に伝わるいにしえの歌
「祈る声」
雅楽・声明・薩摩琵琶

・・・という公演が、江ノ島の寺・日蓮宗・龍口寺で開催された。

●薩摩琵琶「祇園精舎」千山ユキ

詞・平家物語抜粋 曲・鶴田錦史 編曲・岩佐鶴丈・・・とある。

●持妙尼御前御返事ー日蓮の手紙ー

詞・持妙尼御前御返事 曲・岩佐鶴丈、千山ユキ

この2曲は、千山ユキさんの演。

元々あった文句に曲を付けた、ということか。
この辺の成り行きが分からないけれど「祇園精舎」が良かった。

「持妙尼御前御返事」というのは、持妙尼(じみょうあま)が、亡き夫の追善のために持妙尼から僧膳料(そうぜんりょう)を送ってきたことへの返礼状のこと。

いわゆる鎌倉仏教と呼ばれる宗派の特徴は「仏教の日本化」ということかと思う。
我々平安仏教は、輸入品のままの仏教と言っていい。
それが、鎌倉時代に、経文を音読みするだけでなく、祖師が日本語で書いた物を読むようになる。
浄土宗、日蓮宗、浄土真宗、みなそうである。
特に、日蓮宗は、このような手紙でさえも、ホンモノであれば読み、そこに祖師様の教えを読み取ろうとする。

●龍の口

詞・飯田胡春 曲・鶴田錦史
演・馬場一嘉

同じ琵琶でも、微妙な演奏法の違いがあるのだな〜、と思う。

●神楽歌より「星音取(ほしのねとり)・吉々利々(ききりり)」

宮内庁(宮中)の御神楽ノ儀は、皇室の安泰とともに国家安穏、五穀豊穣などが願われ、年数回ほど宮中賢所前にて儀式が執り行われます。「吉々利々」は御神楽ノ儀の「星」と呼ばれる歌謡群の一つで、別名で「明星(あかほし)と呼ばれていました。詞章の中に「白衆等 聴説晨朝清浄偈也」とありますが、これは「法華懺法」の偈文の引用で、かつて宮中でしばしば行われていた「法華懺法」から、明星の時刻を示す「晨朝」の語をもった一句が切り取られて言ったものと思われます。
・・・とプログラムの解説がある。
「法華懺法」が宮中で行われていた名残があるというのが興味深い。

笛・篳篥・和琴とともに「本拍子・末拍子」という謡いが入る。
和琴の音が素朴で良い感じ。
「本拍子・末拍子」という人が二人で、何というのか分からないが、白木の板状で棒状の物を打ち鳴らして「拍子」を取りつつ謡う。
しかし、それが一般的な「拍子」になっていないのが、興味深い。

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●対揚(たいよう)(声明)

二人の僧が、経文を輪唱のように唱える。
確か、天台に有ったと思う。その流れなのだろう。
(日蓮上人も比叡山に上がったことになっているが、確かではなく、初め天台僧に付いたらしい)
天台のを聴いた時には、不協和音のようにしか聞こえなかったが今回の僧侶お二人は雅楽をされており、今回も笙を吹かれていたから、音が確かなのだろう、違和感無く聴くことができた。

●壱越調調子

笙の音が美しい。
純正律の音なんだな〜と思う。どれもが和音になる。
どれもが和音にならない一般的な平均律との違いを体感する。
「対揚」の僧お二人がそのまま笙を演奏される。

●高祖讃(雅楽附物)

日蓮宗声明「高祖讃」は日蓮宗の大本山池上本門寺が日蓮大聖人御入第700遠忌の際、昭和56年10月13日午前8時に池上本門寺祖師堂で営まれた臨滅度時法要で初めてお唱えされた声明です。
作詞は戸田浩暁師、声明の節は「天台大師御影供」の「画讃」を基に、天納傳中師のご助言を頂き、早水日秀師が添譜をいたしました。
雅楽譜は、桑原ゆう氏の補曲により令和3年12月19日に日暮里延命院で初演されました。


「昭和56年に作られた」声明というのが「なかなか」であります。
「作ろう」と思うことも「作る」ということも、できない。ウチでは絶対できない。

聴くときは、プログラムを見ないで聴いていたので、後から、桑原ゆうさんが関わったことを知って「なるほど」と思った。
確か、桑原さんが「声明等に関わったのは日蓮宗が最初」というようなことを仰ってた。それがこれだったのか、と。
声明と鞨鼓・笙・篳篥・龍笛が上手く合っている。
こういう感じが、昔からあったとは思えなかったので、納得。

●咒讃(しゅさん)
●廻向伽陀(えこうかだ)

純粋に声明で幕を閉じた。

気になったのは、この二人の僧侶の内のお一人がSNSに書かれていたが、声明を客席に向いて唱えられていたこと。
劇場では、ワタシが見た限り、奈良の薬師寺の国立劇場に於ける公演以外は、客席に向かって経を読む、という、本来あり得ないことをやっている。
それは公演だし、御本尊様がいらっしゃるワケではない、という割り切りが必要ということ。
しかし、今回は本堂である。
この部分だけでも御本尊様に向かっても良かったのではないかと思っていた。
劇場では客席に背を向けては声が届かないということでもあるが、ここは本堂。
聴衆も少なく、声が届かないことはない。
普段は御本尊様に向かって唱えているのだから、そうしても問題無い、というか、それが本来。

聴衆にも、もし「声明鑑賞」という気持ちで来た人がいれば、御本尊様に向かい「信仰の形」を見せて差し上げるのも良かったのではないか、と思った。

まぁ、こうやって寺に来ていただき、声明を聴いていただくだけでも「布教」にはなっていると思いますけど、ね。


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