「四座講式」のレコード
「四座講式」という声明曲がある。
真言宗に伝わる声明曲で、涅槃会(真言では「常楽会」という)で唱えられている。
明恵上人の作。
講式とは(Wiki 先生曰く)・・・
元来、講式とは法会・講会を行う際の儀式次第を漢文訓読体の文章にしたもので、時代が下るとともに文学性や音楽性を付与されて声明としての性格を持つようになった。
講式は、声明の一部分であり、演奏様式としては邦楽の「語りもの音楽」のなかの一ジャンルに属している。
すでに平安時代中期にはつくられており、こんにち耳で聴くことのできる最古の語りものである。
最澄や空海が作ったとされる講式も伝えられているが、作者が確定している作品では源信の『二十五三昧式』『六道講式』が最古のもとされている。
講式の音楽は、鎌倉時代中期における平曲の成立に大きな影響をあたえた。
最澄の『六天講式』、明恵の『四座講式』、貞慶の『弥勒講式』、覚如の『報恩講式』、叡尊の『聖徳太子講式』などの存在が知られる。
講式は民衆布教において重要な役割を果たした。例えば、法然の没後、門人らによって開かれた「知恩講」における作法を書いた『知恩講私記(知恩講式)』は浄土宗の専修念仏の教えと法然の生涯を分かりやすく説いたものとして、浄土宗の布教に大きな影響を与えた。
新義真言宗の派祖「覚鑁上人・作」という講式もあるが、さて、その頃にあったかどうか?
弘法大師様の遺言ですら、後世の人が作ってしまうようなことがまかり通った昔は、信じて良いものか?・・・というのがいくつもある。
講式は、ほとんどが物語であると言えよう。
他にも・・・
「表白(ひょうびゃく・ひょうはく)」
本派では(ひょうひゃく)と読む、という能化様からの御垂示があったらしい。
「祭文(さいもん)」
「教化(きょうけ)」
「説草(せっそう)」など、語り物的な声明曲がいくつもある。
表白は、法要の趣旨を(御本尊に)申し述べる。
祭文は、法要のもとになったお話とか、法要について分かりやすく述べたもの。
参列者に聴かせるという面が大きいと思う。
教化は、なんだろう?、是を以て教化ができましたよん、と言ってるように思える。
説草というのが、謎。
「大般若」の時の導師が読むのを説草と言うが、もとは「説法の草稿」だと思う。
この全てが、本来はその都度書かれた物なのだろうと思える。
「講式」の「講」は「講じる」ということで、語るという意味合いがある。
「式」は「法式(ほっしき)」と同様の意味合いだと思う。
「講じる」ということで成り立つ「法会」というような意味合いだと思う。
前述のように高僧が作られたとされる「講式(式文)」があるが、これは、表白などと同じで、その都度導師が作ったものではないだろうか?
葬儀の時に「風誦文(ふじゅもん・引導文)」をその都度作るように、法会の目的によって作ったのだと思う。
サイモンとかもそうなのだと思うが、その中の良い物が伝え残されたのだろう。
「大般若転読法要」の導師の表白もそうだが「説草」という部分の作られたもの、というより「説草」だから、おそらく「大般若転読法要」の時に、導師が大般若の意味を説いたのだろうと思う。
そのための「草稿」が残されたということなのだと思う。
「論議」もそうだ。
本来は「実際に論議する」ことに意味があった。
それが、後に記録として残され、それを読むという形で、次第に形式化され、やがて節も付いていったのだろう。
例えば、成田山でも、川崎大師でも、高尾山でも、護摩供の中で「祈願文」というものを読む。
それは「そのお山の読み方」というものができている。
思いを込めてよくウチに、抑揚が付き、節のようになっているのを聴かれたこともあるかと思う。
ああいう形で、語り物の声明ができたのだろうと思うのだ。
この青木融光大僧正のレコードは、とにかく「四座講式」の全てが収録されている。
これを聴いていると、現在豊山派の『声明大全』CDを録音された「迦陵頻伽声明研究会」「涅槃会の会」の孤島由昌阿闍梨は声も似ていらっしゃる。
実は智山派では「四座」を消失してしまっている。
江戸時代の「四座」全部の次第本はあるし、智山派となって初代の能化様・瑜伽教如師が、大正時代に「四座」を伝授されたという記録がある。
瑜伽師の弟子筋にあたる方に伝授されなかったのだろうか?
豊山派では『声明大全』の常楽会編を編集中だったはず。
先だって遷化された新井弘順師の葬儀でも「心残りであったろう」という言葉が聞かれた。
いま、本派の青年会の有志が、孤島由昌阿闍梨に「四座」を習いに行ってるという話を聞いた。
でも、それは豊山派のものだ。
それを智山派に「翻訳」する必要がある。
さて、それがワタシにできるか・・・だ。
青木融光師の声を聞いていると、謡曲とかへの流れを感じる。
ちなみに、下が謡曲の本。
下が『四座講式』の本。
漢文を返り点で読む。脇にある点々が譜面のようなもの。
これを見ると、譜本自体が四座講式の流れを汲んでいるということがわかる。
書体も同じような感じになってる。
おそらく、日本の語り物の原点はここにあると思う。
「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響きあり・・・」の平家物語。
「平曲」と呼ばれるこのジャンルも、鎌倉時代に遡るという。
平家琵琶というと「琵琶法師」が思い浮かぶが「琵琶法師」をWiki先生に聞いてみると・・・
日本の琵琶は古代のアジア大陸よりもたらされたものであるが、その系統には唐から奈良時代および平安時代にもたらされた器楽の琵琶楽(雅楽、芸術音楽)と、それと同時代ないしそれに先んじてもたらされた声楽の琵琶楽(盲僧琵琶、宗教音楽)との2つがある。
琵琶法師は、後者に属し、宗教音楽としての盲僧琵琶を担った。なお、盲人の琵琶法師(盲僧琵琶)から宗教性を脱した語りものを「くずれ」という。
仏説を語る琵琶法師は天台宗などに属する低級の宗教者であり、仏説座頭、地神経座頭などと呼ばれ、地鎮祭や竈祓いで地神経や荒神経を行った。
僧侶が琵琶を弾く理由は、『法華経』方便品第二に、琵琶などの楽器を奏で仏を供養する「妙音成仏」の思想が説かれているからである。
天台宗系の玄清法流の開祖・玄清法印(766年-823年)は、17歳で眼病を患い失明したあと、盲僧の祖であるインドの阿那律尊者にならい盲僧琵琶の一派を開いた。
仏説座頭の活動範囲は後述する平家座頭に比べてあまり広くはなかった。
・・・というふうに書かれている。
琵琶法師は古い存在だったと言うことだが「平家琵琶」については・・・
鎌倉時代には『平家物語』を琵琶の伴奏に合わせて語る平曲が完成した。
この時代には、主として経文を唱える盲僧琵琶と、『平家物語』を語る平家琵琶(平家座頭)とに分かれた。
琵琶法師のなかには「浄瑠璃十二段草子」など説話・説経節を取り入れる者がおり、これがのちの浄瑠璃となった。
平家座頭はその当初から廻国の芸能者であり、中世には文化人の伝手や紹介状を頼りに、各地の有力な大名の屋敷のあいだを芸を披露して回った。
絵巻物などに登場する平家座頭は、多くの場合弟子を連れての二人旅となっている。
・・・と言うことらしい。
三味線を横に置いて語る浪曲・浪花節の流れはこの辺からのものかも知れない。
一方で、語りだけの「節談説法」というものが、浄土真宗の門徒信徒の間に広まっていった。
これが落語の原点になろうかと思う。
「浄瑠璃」というものもある。
おそらく、もともと琵琶で語っていたものを三味線に置き換えたもので平曲の延長戦上、いや、延長線上にある。
浄瑠璃の「瑠璃」は「瑠璃光浄土」で、お薬師さまの浄土のこと。
阿弥陀さまの赤に対して、お薬師さまは青い世界で、この薬師如来の霊験のお話をまじえたものが元になってると聞く。
江戸時代になって、平和な世の中で様々な文化が花開き、それらが影響されあって、育っていった。
近松門左衛門などの作者が出るにいたって、語り物と音楽の相乗効果としての芸術となる。
義太夫節が人形浄瑠璃の流行を生んだと思う。
歌舞伎に音楽が付くのも恐らく江戸のこの頃なんだと思う。
そういう日本の語り物、その音楽の原点は「講式」にあるというのが今の定説。
しかし、その講式の誕生過程はいまひとつわからない。
ただ、鎌倉時代に、このような「日本語のお経」的な物を作って読むことが盛んに行われた。
ここで、お経は「輸入品」から「国産品」が作られるようになったということ。
特に、鎌倉仏教の特徴は、祖師が書いた物を読む、という点にある。
特に、親鸞上人の流れはそれが強い印象がある。
お経や声明の分類には色々言われるが、声明という観点から一番大事なのは「日本語」かどうか?、ということである。
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