レコード「真言声明」を聴く
昭和39年に、ポリドールレコードから出されたもの。
4枚組の豪華なものだ。装丁も豪華。
「いかにも」という感じ。偉そうだ。
この辺りからこういうレコードがドンドン出されるようになったものと思う。
先の智山派のレコードは昭和52年だから、終わりの頃だろうか?
恐らくは、国立劇場のオープンに伴ない「声明公演」というものが始まったことによるところが大きいものと思う。
そういう意味では、声明というものが、単なる「お経」という認知から変化したと言うことだろう。
しかし国立劇場の「公演」は「声明の鑑賞」という歪んだ特殊な状況を生みだすということでもあった。
このレコードは「寄贈」されたもので、いただいたのは古典音楽に関わりのある女性でもあったのか?
おそらくこのレコードは「未使用」だったと思われる。
タダで貰った物だ、興味が無ければ聴かないだろう。
最終的には売られてしまった。
空しいものだが、ワタシにとってはこの上なく有り難い。
ノイズが極めて少ないのだから。
監修されたのは、国語学の金田一春彦博士。
氏は、日本語のアクセントを研究されていて、真言声明に残る「四座講式」が鎌倉時代のアクセントを反映している、ということから真言声明の研究をさて、おろらく当時、これほどの研究をされた方は、宗派の内外にも少なく、画期的なことだったと思う。
歴史を研究する方はいても、音楽的に研究できる人は宗派内にはまったくいなかったと言って良い。
それが証拠に、金田一博士の論を取り違えてしまって書かれた本が宗内に、今も訂正されずにある。
ここに取り上げられているのは、智山声明と高野山の声明で、豊山派のが無い。
これは豊山派としてはプライドを傷つけられたのではないか?
真言声明として価値がない、智山派の方がいい、と言われたようなものだからね〜。
まぁ、ここまでに、豊山派のレコードは出ているということと、金田一博士の判断に依るところが大きいが、智山派の中に真言声明の古い物が残っていると思われたということのよう。
しかし、声明は、同じ宗派内でも「誰に教わったか」で唱え方が微妙に違っていたりして、極めて微妙ながら、これが大きな問題になる。
「ソレは違う」と言われると自身の全てを否定されたかのような反感が起こるのだ。
宗派内にいくつかの「流れ」はある。
その師によって唱え方が違う部分がある。
それは、時期的にどの師に習ったか?ということであって、当人の問題ではなく、師の問題なのだが、自分の問題となってしまう傾向がある。
ワタシは、宗派を越えて客観的に見ているつもりで、色んな唱え方も「あり」と思っている。
基本的には今の能化サマの節ではある。
それは大学に入って1年〜2年の「実践仏教」というコマで習ったからだ。
息子も、能化サマのご子息に習っているので有り難いことだと思っている。
研究の上では、能化サマの伝にも間違い的な点もあるが、それは研究の上であって、実際に自分が唱えるものは、自分が習った「伝」を尊重する。
そういうものだ。
高野山を「古義真言宗」といい、智山派・豊山派を「新義真言宗」という。
高野山の方が古義と言うくらいだからなんでも古いと思ったら大間違い。
声明は、大分崩れてしまっている。
このレコードを聴いても、智山派には残っている多様な節回しが、崩れて、単純な節になってしまっているのが分かる。
どう考えても、高野山(南山進流という)の声明から智山派・豊山派の声明ができたとは思えない。
智山派と豊山派はどうかというと、ほぼ同じ、という感じ。同じに聞こえると思う。
ただ、節回しを比較すると、豊山派には省略と誇張が見られる。
細かい節回しを「そんなんやってられっかよ〜」(^^)・・と省略している部分があるし、大きく音を上げる「ヒバリ返し」という節が、智山派は1回だが、豊山派では2回音を回すようになっていたりするし、ところどころ「派手になってる」という部分がある。
次第本など、良いようにと小まめに改訂されているが、智山派では、誤植も直さないというくらい「変えない」という宗風のようなものを感じる。
声明も愚直なまでに「変えない」という感じがあるように思う。
そういう意味では、金田一博士の判断は良かったんだと思う。
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