国立劇場は満員だった。
チケットも、東大寺友の会の特別申し込みの日にちを勘違いして遅れたらほとんど埋まっていたし、一般販売はスグに満席になってしまっていた。
国立劇場の声明公演は、やはり有名になっていて、中でも、東大寺というのは魅力的だったのだろう。
仏教に何かを期待する人がこんなにいるのか?!
・・・という思いも生じるが、待て待て、期待されているのは、本当に「仏教」なのか?
それは「寺」を抜いた「声明」なのかも知れないぞ、っと。
国立劇場の声明講演はその「こけら落とし」から始まっており、同じく歴史を刻んできた。
そのプロデューサーだった木戸敏郎という人が次のように申している。
仏は絶対的な存在であり、したがって法会も仏前にふさわしい絶対的な性格を持つ。
法会の中でうたわれる典礼音楽である聲明も犯すべからざるものとなる。
ところが国立劇場は芸能の場であり、公演は観客のために行われるパフォーマンスである。
観客は常に時代の嗜好で動いており、公演の内容も観客の好みによって左右される。
劇場は聴衆を対象とした音の現場であり、常に現代史を刻み続けている。
ここでは聲明も絶対的な性格から相対的な性格へと変わる。
もう一つ、国立劇場には国という性格が重なっている。
憲法の条文により、国は宗教に関与してはいけないことになっている。
したがって国立劇場で聲明を演奏する際、この理念は音楽性を評価して宗教性を除去したものであることを旗色(「幟」筆者注)鮮明にしてかからなければいけない。
これは、国立博物館が仏像を礼拝の対象としてではなく、芸術作品として評価して展示をしているのと同じである。
・・・という。
私が国立劇場の声明公演や、国立博物館における佛像の展示に感じた違和感を、この方はハッキリ言い切っていたので、驚いたのだった。
「意図してのことだったのか」・・と。
そしてこの方は、決定的な間違いを犯してしまっていた。
寺院の法会における聲明の演奏は、たとえ建物は何回も建て替わっていても、同じ場所に何百年も存在し続けているモノの迫力に幻惑されて、そこで演奏されている聲明も永遠のもののような錯覚をおぼえさせる。
しかしながら、音楽は演奏という現在の行為によらなければ現実の存在にはならない。
常に現在の存在でしかないという宿命を持っている。
劇場の舞台は、本来は空白な性格の空間であり、ここで演奏される聲明は、まるで大道具がその都度組み立てられているように、公演の都度演奏が構築されてゆく。
劇場の舞台で演奏される聲明は、いま行われている掛けかえのない1回限りの実験的なイベントであり、歴史性が剥奪されて音になった聲明は、いっそう音楽としてのコンセプトが明瞭になってくる。
『日本音楽叢書 聲明(一)』
国立劇場の声明公演は、そもそもこの方の、このお間違いによって始まったものだということだ。
真逆と言っていい。
この方が否定していることが正しいことである。
分かった上で否定しているのだから困ったものだ。
そして、公演は、この方の思惑通りの展開となってしまった。
僧侶が拍手で迎えられ、終われば拍手で送られる。
見てられない。
ナサケナイことこの上ない。
ここの「何のための声明か?」という問題が現れてしまっている。
おそらく、聴衆のほとんども、そのことを考えてはいないだろう。
「国立劇場は芸能の場であり、公演は観客のために行われるパフォーマンスである。」
木戸敏郎氏は、こう言い切っている。
まったく以て失礼な話である。
プロデューサーというようなことをする人は、余程の自信家であり、またそうで無くてはできないのだろう。
「声明公演」のすべては、この意識から始まってしまったのだ。
何のための声明か?!
・・・それは佛前に供えるものだ。
そこには唱える我々の信心があり、法会に参列する方々の信心がある。
信心があってこその声明である。
東大寺の方が冒頭にされた挨拶の中で、二月堂の中で観音様の前で行っている法要を劇場でするのはいかがなものか、という意見はあるが、練行衆が練習するときのつもりでよいのではないか?、しかし、二月堂にいるつもりでやろう、というようなことを仰っていた。
あくまでも、これは修二会の「法会ではない」という気持ちがうかがえる。
祭壇に子観音の龕が置かれていた(と言うことなんだと思う)けれど「中身」はどうしたんだろうか?
結局、どうしたって、ステージと客席という位置関係は厳然としてある。
それは物理的なものではなく、意識の中に存在する。
国立劇場のプロデューサーが、法会の上に立った(悪くいえば見下した)ようなことを書いているのは、信心がないからで、同様の意識は「お金を払って【鑑賞】する」という「お客様」の意識にも生じてしまう。
木戸敏郎氏がやったように、法会に用いる声明の「宗教」の部分を排除する、という認識はお客にもあって、本来なら法会の場に行って聴聞することが良いに決まっているが、それは敷居が高いのか、はたまた仏教の部分がメンドクサイのか・・・も知れない。
「国立劇場でやる」という「権威付け」が良いのかも知れない。
チケットが販売して間もなく完売に近い状態になり、実際、満員御礼の劇場の、これだけの人がお寺に行くわけでは無い。
お寺が近寄りがたい、面倒くさそう、と思う人が大多数といことか?
これは、なかなか聴聞するのも大変な東大寺だから、というワケでは無く、置いてあった次回の公演「長谷寺の声明」のチラシが、帰る時には無くなっていたことからもわかるが、毎回大賑わいなのだ。
これは実際の仏教ではなく、そこから抽出された「声明」というものを、劇場で鑑賞するという極めて歪な状態が「ヨシ」とされてしまった不幸がある。
木戸敏郎氏は・・・
「劇場の舞台で演奏される聲明は、いま行われている掛けかえのない1回限りの実験的なイベントであり、歴史性が剥奪されて音になった聲明は、いっそう音楽としてのコンセプトが明瞭になってくる」というが、何を戯けたことを言っているのか?と思う。
音楽性のみ抽出したと言っても、それが法会からの忠実な抽出では無い。
寺院の法会における聲明の演奏は、たとえ建物は何回も建て替わっていても、同じ場所に何百年も存在し続けているモノの迫力に幻惑されて、そこで演奏されている聲明も永遠のもののような錯覚をおぼえさせる・・・と、書いている。
また・・・
音楽は演奏という現在の行為によらなければ現実の存在にはならない・・という可笑しなことも書いている。
永遠のもののような錯覚・・・それは「伝統」という。
そもそもが、声明も仏教も伝統という物の上に成り立っている。
氏が言う「声明の持つ音楽性」というものも、伝統の上にある。
それは「場所」が重要な意味を持つ。
氏はそれらを排除するのをヨシとするが、それが如何に間違ったことであったかを我々も思い知るべきである。
薬師寺の公演では特に「ここも仏教徒の縁を結ぶ法会の場である」というような、あくまでも法会と同じか、法会であるという認識を示していると感じたが、それも違う。
ステージと客席というモノが隔てるものは大きい。
この鑑賞に訪れる客を見る度に、それを感じる。
だから、ここの人が法会に訪れるとは思えない。
そりゃあ、多少はいると思うが、大部分は、ここでも公演だから良いと思っているのだと私は考える。
音楽は演奏という現在の行為によらなければ現実の存在にはならないというが、ステージで演じるということが当たり前の演目はそう言えるが、そもそもステージで「披露する」ということに不慣れな人間が、木戸氏の言うような「音楽性を抽出した音楽としての声明」というようなモノになっているか?・・・といえば否!であろう。
国立劇場という無闇に広い空間において、客席に向かってハの字に広がって並ばされ唱えたら、反対側の声が聞こえない。
加えてこの劇場は、まったく馬鹿げているのだが、拡声をしない。
ステージの造りも、NHKホールのような音を前に出す設計が成されていないから、声が聞こえない。
発声の訓練をしているワケでは無い僧侶の声が、この造りの悪さに堪えられない。
実際、冒頭で東大寺の僧侶が話をした時の拡声は音が極めて悪く、これでは、キチンとした拡声が出来るとも思えないが・・・
開演前に、この舞台の様子は記録として録画されているというようなことを言う。
そういうことなら収音は必須だろう?!
それをするなら拡声もできる。
その技術と機械が無い、ということなのか?
だとしたら、新しい劇場では、キチンと近代的な拡声をできるホールにして貰いたい。
客席のほとんどが聞き取れないステージを平気でこしらえている、という劇場の姿勢も間違っている。
声明は、木戸敏郎氏の思うように、それだけで価値があるのもでは断じてない。
法会の中において、佛様と信仰する人との間にあるものであって、信仰を抜いては存在すらしないと言っておおようなものだ。
加えて、僧侶は「演者」としては素人である。
信仰を持つ人にできるだけ良い声明を聴いていただきたいと思って訓練するのは良いが、極端に言うと「オレのいい声を聴かせてやる」とか思ったら、それはもう声明(お経)とは言えない。
木戸氏は(木戸氏にとっての)声明には邪魔だというように言う、その法会の「場」と、それが育む「歴史」こそが重要なのであって、その場を離れての法会というものも無い。
信仰を持たず、だだその「音楽性」を「鑑賞」するということが良いことだと思い込んで(思い込まされて)しまった観客が、目にする、耳にするそれは「まがい物」に他ならない。
「客」と「演者」と「料金」という、その関係性がある限り、これは法会でも、声明でも、何でも無い。
演者としては素人である僧侶が「もどき」を演じているに過ぎないモノと、ワタシは思うのだ。
(個人の感想です)
声明公演がある度にこういうことを書いている気がするが・・・
それでは何でお前はソコの行くのか?
・・ということだろうが・・・
それは、名ばかりながら研究者としてである。
法会にも足を運ぶのは当然ながら、行けないところ、行ってないところのものを拝聴するには貴重な機会だから、だ。
研究者としてしか、価値がない、と思えるから、ここに集まる皆さんの気持ちが分からない、ということ。
結局「五体投地」も「走り」も「見世物」になってたとしか思えない。
信心がない人が「鑑賞」するものは見世物に過ぎないモノとなってしまうのだ。
女性では入れる場所が限られているから、中の様子が分かる貴重な機会ということにもなるのだろうが、見えないモノは見えないままでイイ。
ソレが伝統というものだし、それでも法会だ、ということだ。
それを見る必要はない、というのが、本当のところだ。
公演、それ自体は良かったと思うが、やはり、劇場での声明公演ということへの違和感は強くなるばかり、という感じ。
この記事へのコメント
タロウカジャ
国立劇場が満席なのと上野国立博物館の仏像等の特別展が長蛇の行列になるのと通じるものがあります。当日聴衆のかたに、この時代に仏教にこれだけ期待しているのか質問すると無宗教ですと答える方が多いかもしれません。
三日ボーズ
東京だと、本山クラスはあまりないので、大きな法会は少ないし、また、どうやって行ったら良いかも分からないのでしょうね。
お寺の法会に参列するのは檀家であるとか信者であるとか、そういう関係性がないと行けないのか、と思われているのか、なんにしても、お寺の敷居が高い感じになってるんかな〜?、と思います。