このツイートが流れてきた。
この「編集権」という言葉に強い違和感を感じた。
なにこれ?・・・とググってみたら・・・
一般社団法人「日本新聞協会」というところのHPには次のようにある。(以下引用)
https://www.pressnet.or.jp/statement/report/480316_107.html
日本新聞協会の編集権声明【1948(昭和23)年3月16日】
新聞の自由は憲法により保障された権利であり、法律により禁じられている場合を除き一切の問題に関し公正な評論、事実に即する報道を行う自由である。
この自由はあらゆる自由権の基礎であり民主社会の維持発展に欠くことが出来ぬものである。またこの自由が確保されて初めて責任ある新聞が出来るものであるから、これを確立維持することは新聞人に課せられた重大な責任である。編集権はこうした責任を遂行する必要上何人によっても認められるべき特殊な権能である。
1 編集権の内容
編集権とは新聞の編集方針を決定施行し報道の真実、評論の公正並びに公表方法の適正を維持するなど新聞編集に必要な一切の管理を行う権能である。編集方針とは基本的な編集綱領の外に随時発生するニュースの取扱いに関する個別的具体的方針を含む。報道の真実、評論の公正、公表方法の適正の基準は日本新聞協会の定めた新聞倫理綱領による。
2 編集権の行使者
編集内容に対する最終的責任は経営、編集管理者に帰せられるものであるから、編集権を行使するものは経営管理者およびその委託を受けた編集管理者に限られる。新聞企業が法人組織の場合には取締役会、理事会などが経営管理者として編集権行使の主体となる。
3 編集権の確保
新聞の経営、編集管理者は常時編集権確保に必要な手段を講ずると共に個人たると、団体たると、外部たると、内部たるとを問わずあらゆるものに対し編集権を守る義務がある。外部からの侵害に対してはあくまでこれを拒否する。また内部においても故意に報道、評論の真実公正および公表方法の適正を害しあるいは定められた編集方針に従わぬものは何人といえども編集権を侵害したものとしてこれを排除する。編集内容を理由として印刷、配布を妨害する行為は編集権の侵害である。
「声明」というのだから、これはあくまで、新聞側が決定に言ってることだろう。
「権利」といいつつ、憲法の人権とかに関わるものではない。
新聞というメディアの主張、というものだと思える。・・・に過ぎないこと。
この文を読む限り、かなり傲慢な印象を受ける。
最初に憲法の「言論表現出版の自由」を掲げているが、それは何人にも許される自由であり、改めて述べることでは無い。
「自由」だけを声高に言うのは賢いことではない。
自由の中には「責任」があるということだ。
新聞が言うべきは、内に向けての「正しい報道を心がける義務と責任がある」ということだ。
これを語らずただ自由だけを掲げるのはバカとしか言い様がない。
「言論表現出版の自由」がある、全てはその内に含まれる。
そこに「編集権」などというものを掲げるのには違和感を感じる。
単なる身勝手と思う。
これは、本来は、政治やイデオロギーに左右されずに中立であるべきだということで、新聞側の内側に向けた姿勢表明であるというなら分かる。
これを、冒頭のツイートの主のように言うのは、明らかに間違った認識だと思う。
イデオロギーというば、この文章自体が、どうも戦後の労組とかの雰囲気が感じられる。
この文章への違和感は、それだ。
これ自体に、イデオロギーを感じる。古臭さを感じる所以だ。
こんな物を未だに掲げている新聞が、古くさいと思えるのは仕方が無いことだろう。
それに気がつかない新聞というメディアは、すでに終わっているということだろう。
上記『編集権声明』の「2」にあるように、これは「編集管理者に限られる」ということなので、ツイート主が管理者の下で働く者であったら、その個人に「編集権」と言う権利は無い。
そもそも「編集権」というのは、個人等への取材とかで行使するものではない。
その場合、人格的評価に影響を与えるような誤記があった場合は、編集権などというものは、埃の如く軽い物になる。
かつて、佐藤栄作、当時首相が発した「テレビカメラはどこですか」という声がよく知られる。
「テレビは真実を伝えてくれるので、私は直接テレビから国民の皆さんにご挨拶します」
「テレビカメラはどこだ。偏向的新聞は大きらいだ。記者の方は帰ってください」
・・・というようなことを言ったという。
テレビカメラに向かって国民に直接話をするような感じでやりたい、と言っていたのに、いつものように前の方に新聞記者が陣取っていたので、怒ったというのがホントの所らしいが、ここで引き上げた新聞記者は、テレビを見て記事を書いたのだろうか?
さて、先のツイートでネタになっているのは「掲載前にゲラを見せて貰えるか?」ということに対する答えだったようにおもう。
いま、ツイート主が公開対象を限定にしてしまったので、確認できないのだが・・・
それれに対して「編集権」という言葉をだしたので、違和感を感じたわけだ。
これは、公に認識されてはいない・・・はずだ。
本来は、上記のように、新聞社が言い出した勝手な声明に過ぎない。
それもかなり古い。
文章から、学生運動の頃かと思ったが、もっと古く、戦後まもなくのことだった。
以下に、それが分かるものを引用させていただく。
・・・と、こういう物だった。
なんと古くさい・・・。
これが、やがて新聞以外にも波及したとみるべきなのか?
『日本大百科全書(ニッポニカ)』から引用する・・・
新聞の編集方針を定め、それを実行して、報道の真実、評論の公正ならびに公表方法の適正を維持するなど新聞編集に必要ないっさいの管理を行う権能のこと。雑誌、書籍、放送(編成権という)、映画などでも同じ意味で使われる。編集権は経営管理者とその委託を受けた編集管理者に帰属し、経営・編集管理者は、外部はもとより内部の侵害からもこの権能を守る義務があるとされている。本来、編集物を発行する行為は、自ら表現したいことを社会に訴える一つの方法であり、編集・発行者が内容の決定に完全な自由と責任をもつのが言論・表現の自由からいって当然といえよう。しかし企業規模が大きくなり、もっぱら取材、執筆、編集に携わるジャーナリストが生まれ、編集業務がそれらの人々に日常的にゆだねられるようになると、ジャーナリストの間から編集内容の決定に対する権利が主張されるようになった。
わが国では編集権ということばは1948年(昭和23)3月16日、社団法人日本新聞協会が発表した「編集権声明」で初めて使われ、定義づけられたとされる。当時、日本は占領下にあり、各地の新聞社、出版社で激しい民主化争議が続発していた。こうした民主化運動に対し、占領政策を急変したGHQ(連合国最高司令部)が抑圧に乗り出した時期に編集権声明が発表された点は見逃すことはできない。その後、世界的に新聞をはじめマス・メディアをめぐる諸条件が変化するなかで、内部的自由(経営者の経営管理権に対抗して、ジャーナリストの表現活動の自主性を図ろうとする自由)の容認が進むなど、編集権にも再検討の兆しがみえる。
[高須正郎]
『日本新聞協会編・刊『新聞の編集権』(1985)』
『世界大百科事典 第2版』には以下のようにある。
新聞,雑誌,書籍,映画などの編集方針,表現内容を決定する権能をさすが,おもに新聞にかかわる概念である(放送では〈編成権〉という)。現実には,この権能がどのような範囲の問題にまで及ぶのか,またその権能がだれに帰属するのかが,重要な問題となる。日本では,第2次大戦後,新聞労働者による社内〈民主化〉運動のなかで,従業員が新聞製作のイニシアティブをにぎる状況が生じたため,占領軍の民主化抑制への方針転換を背景に,新聞編集の実権を取り戻そうとする経営者とのあいだで,1946年の第2次読売新聞争議(読売争議)など紙面編集の権限をめぐる紛争が続いた。
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』
新聞の編集に必要なすべての管理を行なう権能。この概念は出版や放送といった媒体でも採用され,放送関係では編成権といわれる。1948年に日本新聞協会が明らかにした「新聞編集権の確保に関する声明」によると,その行使は経営管理者およびその委託を受けた編集管理者が行ない,この権利を侵害する者は何人といえど排除するとしている。これは第2次世界大戦終戦直後に新聞業界で民主化運動が起こり連合国総司令部の介入を招いたことが背景にある。その後マス・メディアが企業として発達するにつれ,企業経営と新聞編集の分離についての議論がなされるようになった(→プレスの内部的自由)。
『デジタル大辞泉』では以下のよう。
新聞・雑誌・書籍などの編集方針を決定し、それを実施して一切の管理を行う権限。
最後の方になると、だいぶ印象が変わってくる。
・・・続く・・・

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