世田谷美術館にて、写真展『祈り・藤原新也』。
藤原新也さんの「回顧展」のような感じになってる。
集大成、のような。
まだご存命で、先日のNHKの放送では、まだまだ精力的に撮影に取り組んでおられる姿を拝見できた。
有名人の写真以外は、原則「撮影可」だった。
イキナリの佛様。
その奥に蓮の花というのは、狙ってのことだろうか?
これがまた美しい。
蓮の花なんて、数多撮られているが、ここに在ると、やはり「違う」。
「藤原新也だ」と思ってしまう。
「藤原新也の蓮」になってる。
藤原新也さんと言えば、やはりこの写真。
『フォーカス』だったと思う。
学生の時に見て、衝撃を受けた。
このころも「死体」を写し公開することはタブーだったと思う。
確か、批難もあって、連載が中断されたんだったかと、記憶。
大きなプリントになっていて、粒子も粗い。
あまりに愛おしくて、粒子を撮ってしまった・・・(^^)
「メメント・モリ(死を想え)」というのがひとつのテーマになっている。
今回の展示もそうだが、氏の写真の繋がったテーマと思う。
このインドの写真がインドのイメージを作ったと思う。
インドへ行けば何かが分かる、変わる、と思ってインドへ向かったワカモノは多かったと思う。
そういうイメージのキッカケは氏の写真と文章だったんだと思う。
おそらく、ガンジス川の風景は、そんなに変わってないのかも知れない。
今も、死を察した行者が来て死を迎える。
遺体が焼かれ、流される。
日本に於ける死が、産業化され、キレイゴトになってる。
藤原さんが行かれた時にも、日本に於けるそれとの乖離が感じられたことだろうが、今は、もっと隔たってしまったのだろう。
氏は「書」も書かれる。
これもまた「藤原新也だ」と言える。
何をやっても藤原新也なのだ。
強烈なメッセージだ。
「死を想え」と対するように思えるが、死を思うことが生を考えることになる。
死があるから生がある。
死を思い、そして、生きる!
核家族が進み、おじいちゃん・おばあちゃんがいない家が多くなって「老・病・死」を感じられない家が圧倒的に多くなってしまった。
だいたい10歳くらいで、おじいちゃん・おばあちゃんが死を教えてくれる。
「死」が身近で無くなって「生」や「命」といったものがアヤフヤになってしまったように思える。
日本の宗教はキレイゴトになってしまっているのかも知れない。
インドには、生と死が対等にある、という感じがする。
キレイゴトではない、生と死。
それが、日常にある。
平安時代は、おそらく、京の都もこんな風だったんだと思う。
東山にうち捨てられる遺体・・・
鴨川に流れる遺体・・・
以前、遺体の写真を撮る、という問題を書いたが、ここに特別で格別の写真があった。
氏が、父親の正に臨終を捕らえたもの。
これには、その状況を迎え、撮ったということ自体が凄いことだが、その文章に泣かされ、格別の写真となった・・・
この記事へのコメント
007
死体のようなものは抵抗があると思います、、、
それでも写真家として撮る、、、
それは報道的?意味合いもあるのかな、と考えております、。
以前、トラックと軽自動車が衝突して、軽自動車の高齢者四人が亡くなりました、、、
カメラ(F100)持参していた小生は撮影をしませんでした、、、
これを取材していいのか!と想い、ファインダーから眼を外した事を思い出しました、、、
こういう時は、プロならば躊躇なく撮影するのでしょうね、、、
ちと回想した次第です。
三日ボーズ
撮影者の「心」が感じたもの、その時の心の在りよう、それを伝えたいという気持ち、そういうものが共鳴できないものは、ダメなんだと思います。
昨今、事件があれば皆がスマホを向けますが、それは興味本位、というもので、そういう軽いものではない、ということが、この写真を見ていると分かります。