クリテリウムは何度も観ているし、これからも観られるし・・・でも、公演はなかなか無いチャンスだし、ということで。
葬儀を終えてから、高速を飛ばします。
途中、事故渋滞があったりして、大丈夫かな?・・・ということもあったですが。
「癒しの」というのがケッコウ嫌いだなぁ〜。(-_-)
我々の方から言うのはどうも・・・
決めつけちゃうのもどうかと・・・
その前に「那須野が原ハーモニーホール」ってどこよ?・・・と思いつつ、ナヴィ子ちゃん任せで行ってみれば、なぁ〜〜んだバリバリの大田原じゃんか?!
何が「バリバリ」なのかワカリマセンが・・(^^)
お陰で、妻と見合いの後、半年の交際中に通ってた道を懐かしむことができた。(^_-)
いや〜造っちゃったねぇ〜、バリバリに奇をてらったモノを・・・(>_<)
コンクリートの打ちっぱなしはね〜、長く保たないからやめた方が良いんですけどね・・・
「お客さん」は、なんか「地元の人」という感じ。
歩くのやっとという感じの老夫婦もいらっしゃる。
こんなトコに、こんなニーズがあったのか?!・・・というオドロキ。
声明をホールで聴く、という人がこんなにいたか、と思う。
地元の訛った坊さんがゲホゴホ言いながら唱えるお経を聴くくらいで、お金出して聴こうという人がこんなにいたですか?!
・・・という、繰り返すがオドロキ。
こりゃ失礼か・・地元の坊さんにもお客さんにも (-_-)
さて、声明公演「聲の輝き」ですが、これは、伝統声明と新作声明が混じったもの。
新作の作曲は宮内康乃さん。
『海霧讃歎(うみぎりさんだん)』は・・・
海霧に とけて我が身も ただよはむ
川面をのぼり 大地をつつみ
という和歌を曲にしたもの。
作曲の宮内さんと、この和歌の作者の子、佐藤慧さんと晃さんとの出会いがあり、そのお母様が生前詠まれた和歌を知った。
お母様は、陸前高田にいて東日本大震災で亡くなられた。
この曲は、各地で演奏され、10年目の時、佐藤慧さんが「返歌」を作られたという。
彼岸に渡り 銀河の砂塵と 散りゆきて
なおもあまねく 生(いのち)のほとりに
これを『海霧廻向』として曲にされた。
『海霧讃歎』は、元は天台声明と真言声明を元に作曲され、双方の特徴を活かしつつ、その二流の声明が重なり合うように作られていたが、今回は、真言声明(豊山派)に作り直されたモノだそう。
オリジナルを知らないから、なんとも言えないが・・・
声明と洋楽の安易なコラボ、という名の歩み寄りの無いケンカを沢山見て、失望していたが、桑原ゆうさんの曲を聴いて、認識を改め、今回も、宮内さんなりの声明への理解が理解できた〜。
さて、困ったな〜、と思うのは、桑原ゆうさんと宮内康乃さん。
桑原さんに「あなたは私を好きだったんじゃないの?、今度は宮内さんなの?、どっちなの?、え?どっちが好きなの?!」
・・・と迫られるという心の葛藤がある。
そんなのを夢想する、なんだこの馬鹿GGI。(^o^)
公演は素晴らしかったのだが、今回のステージを観て聴いて感じたのは、声明が「癒やし」なのではない、ということ。
「声明は佛様の慈しみの心、智慧を磨こうとして唱えるもの」というようなことを、坊さん側の代表が言ってましたが、そうではないな、と思います。
それは、お経であり、勿論声明も含んだ法会なのだと思う。
声明は、やはり儀式音楽であり、法会も純粋に儀式だけかも知れない。
でも、寺という場所で、衣を着た坊さんが唱えるから、その空間に「感じる何か」が生まれるのだ。
内容は良かったが、ステージを観ていて「何か、俗っぽいな・・・」と感じた。
コロモが俗っぽく見えたのだ。
それは、ステージが「俗」だからか?、と思える。
やはり、ステージから客席に向かって唱えられるお経・声明は「ホンモノ」ではない。
佛様を祀る場所・伽藍・空間があって、僧侶が唱えることで成り立つもので、何も無いステージでは、コロモもステージ衣装に見えてしまう。
本来は、佛様の前で着るものだから、何にも無い俗なステージに立つと、逆にコロモも俗なものに見えてしまう、ということかと思う。
法会・声明には歴史と伝統というスパイスも効いている。
その全部があって成り立つ法会であり、声明は、あくまでそこで唱えられる儀式音楽であって、それだけを取り出しても、違和感しか無い、と言うことになる。
佛様が在って初めて成り立つ法会であり、そこで唱えられる儀式音楽としての声明なのだ。
佛様が在って、参拝者の気持ちがあって、そのための法会、という「空間」がある。
その要素のひとつが声明なので、その声明だけを取り出しても意味が無い。
今まで感じていた「声明公演」への違和感の根っこは、こいういうことか?・・・と思った。
これは、ステージの内容が良かったから感じたことで、どうしようもないレベルの「コラボ」という名のケンカ公演では、その前に気持ちが拒絶していた。
それは、キレイな水になったものの、どうしても濾過できなかった異物、のようだ。
キレイになったから見えてきたモノでもあるということ。
桑原さんの『《月の光言(こうごん)》〜明恵上人集より〜』という作品をお寺で収録した動画があった。
場所が寺になるだけで、その魅力が増す、というより、新作の声明が、本来の居場所に帰るようなものかと思う。
もしかしたら、それを実際に聴いたら「新作である」という事に違和感を感じるようになるのかも知れない。
よりきれいに濾過されて、上澄みに微かに残る違和感が、結局、そういうことになって、コレまでの声明でいいじゃないか、という元も子もないような結論になるやもしれない。
今回の新作は、やはり、コーラスのように、声が重なって奏でるようになってるが、声明の基本はユニゾン。
ユニゾンで声の力を強くするのが声明なのだ。
そこにも若干の違和感があるが、桑原さんのも、宮内さんのも、その響きに力を感じた。
その点はとても良かった。
この曲を声にだし、完成させた坊さんにも敬意を表しますです。
難しいと思うんだけど、見事に完成させていた感がある。
素晴らしいです!
ワタシにはできない。
新作声明や、自分たちの声明公演もやってる豊山派の皆様・・・ウチ(智山派)には、ほとんど無いですからね〜
やってみるのも良いのかも知れない・・。
こうして「公演」を聴きたいという人も沢山いらっしゃるわけだし、ワタシが抱く違和感というのは、そういうひねくれたものなのだと思う。
深く考えないで、楽しみとして「アリ」なのかも知れない。
あ、そうそう・・・
もうひとつ違和感・・・というより「あれ?」と思ったこと。
和歌なら「ご詠歌」じゃんか〜?!・・・ということ。
和歌に曲を付けるのは、我々では「ご詠歌」というものがある。
声明ではない。
う〜〜ん、明恵上人の和歌に曲付けてみっかな・・・(^_-)
この記事へのコメント
如犀
蒲生美津子「雅楽作曲法の推察 序説」という論説に
> 「雅楽作曲法」という表題は、すでに出来上がっている楽曲の分析や解明を目的とするものではなく、それを手段
> として、楽曲が創作されていった過程を追求するものである。
とあります。
伝統声明をよりよく理解するために、新作声明の制作過程を追体験してみる、というのもありでしょうね。
三日ボーズ
近年、桑原ゆうさんの声明への取材活動を拝見しておりまして、声明を始め、古典邦楽への理解と、それに則って作曲される様子をみてとても良いと感じています。
作曲者がこの世にいない古典は、その意図や作曲過程を知ることができませんが、新作は、どのような気持ちが込められた作品かを、知ることができるという良さがありますね。
公演というものへの違和感を書き連ねておりますが、この見方は特殊なものと思います。
今回の作品も、それ自体は素晴らしいものでした。