死の向こうに・・・

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恐らく、恵まれなかった水子さんの供養のためのお地蔵様なのだろうと思えるが、その微笑みに救われる感じがする。

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ひと月に何回も葬儀をしているわけだけれど、偉そうな、分かった様なことを言ってても、何度かに一度か・・・
死が怖くなることがある。
火葬場の炉で焼かれるのか?ということが・・・

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自分も死ぬときが来る。
女房よりは早く死にたいものだと思う。
残されるのはイヤだ。

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女房子供にはお礼の手紙をしたためておきたいものだ。
女房にはひたすら謝って・・・
子供には女房のことを頼んだよ、とか何とか言って・・・・(^^)

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でも「その先」があるのだ。
自分が死んだ後も、時は流れ・・・
子供たちの時間が流れる。
それを知ることはできない。

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諸行無常の時の中に消えるのだ。

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何を残せるだろうか?
後世のためになるような何かを残せることがあれば、いい。
それは今から準備しなければ。

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死の先に何がある?
浄土系仏教は「極楽」のあることが大前提だけれど、そんなものは死んでみないと分からない。

それよりは、今を生きることを考えるべきだろう。
生きた果てに、あの世がある。
それは死んでからの話。
それは佛様に委ねて、今を生きるということこそが大事なことだ。
死の向こうは考えなくていい。

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死というのは、結局のところ「他人事」だ。
夫婦であっても、親・兄弟であっても、その死は我が身のこととして認識することはできない。
最期の最期、死の時は、独りなのだ。
どうあれ、独りなのだ。

せめて、手を取って「ありがとう」とか言って死にたいものだけれど、管や線が繋がれたまま、病室で独り死ぬことが多い。

沢山送ったヒトタチの、最期の思いを、その瞬間、共有して、オレは死ぬんだろうなぁ・・・

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そんなことを考えていたら、無性に寂しくなってきた。
そんな気持ちを吹き払うのは、ただただ「生」への気持ちである。
前向きに生きることである。

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「死の向こう」では無い、考えることは「死のコッチ」である。
「向こう」は、考えるな。
「こっち」を見て生きよう。
「今」を生きよう。

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【カメラの話】
ニコンZ 5+50mm F1.8
いや〜、良いレンズです。
つくづく「写真はレンズや〜」と思いますね〜。
こういうのはスマホでは撮れませんからね、スマホ写真家の皆様にも感じていただけるかと思いますが。

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