神社仏閣ではないが、日光二社一寺の近くにある。
神橋が架かる大谷川の、ちょっと上流にある。
(かんまん が ふち)と読む。
男体山から噴出した溶岩によってできた奇勝と大谷川の清流が織りなす自然美。
川岸に巨岩があり、岩上に晃海僧正(こうかいそうじょう)によって造立された不動明王の石像が安置されていましたが、その不動明王の真言の最後の句から「かんまん」の名がついたといわれています。
南岸には数えるたびに数が違うといわれることから化地蔵(ばけじぞう)とよばれる約70体の地蔵群が、また上流の絶壁には、弘法大師が筆を投げて彫りつけたという伝説のある「かんまん」の梵字が刻まれており弘法大師の投筆とよばれています。
地蔵群の対岸は日光植物園になっており、春の新緑に始まり秋の紅葉、そして地蔵たちが雪をかぶるまで、美しい風光を楽しむことができます。
アチコチにある弘法大師伝説がここにもある。
栃木県葛生に次のような民話があるという。
勝道上人は、日光山を開山するまでに、山から山へと何年も歩き修業していました。会沢の小曽戸(おそど)村あたりに来て、金剛童子(こんごうどうじ)を祀ったり、瀧尾権現(たきのおごんげん)を祀ったり、井戸を掘ったりして、修業したこともあったそうです。そして、ここから出流山に行って修業したとのことです。
後世になって、井戸の南の平らなところを田んぼにするために掘り返したら、火を焚いて修業した跡が出てきたこともあったそうです。
勝道上人が小曽戸村あたりで修業してから何十年か経った頃のこと、ひとりの坊様がこの地を通りかかった時のことです。
坊様は、ずいぶん歩いて喉がかわいたので、田中坪と西山坪で飲み水をもらった時のことです。
とてもまずくてまったく飲むことが出来ませんでした。
しかたなく、歩きつづけ、杉野坪あたりまで来て、ある家に立ち寄り、水をいただきたいとお願いしました。
その家には、井戸がありませんでした。けれども、疲れた様子の坊様に水を飲ませてやりたいと、勝道上人の掘った井戸まで急いで汲みに行き坊様に飲ませました。
坊様は、水をうまそうに飲みました。
そして、「うまい水じゃ。しかし、少し時間がかかったようだが、どこの水じゃの」とたずねたので、家には井戸が無いので、いつももらい水をしていることを話しました。
すると坊様は、「遠くまで行ってくれて持ってきてくれた水のお礼じゃ。水を出してあげましょう」と、坊様は持っ
ていた杖でドーンと地面をつつきました。すると不思議、水がこんこんと湧き出してきたのです。こうして、
この家のまわりの家では、水に困ることが無くなったということです。
この坊様は、弘法大師だったと言い伝えられています。
【葛生の魅力】というHPより
空海様と勝道上人は、関係が無かったわけではない。
勝道上人が、日光山(男体山)登頂に成功し、開山の祖となったのは782年、48歳の時。
その時、空海さんは8歳か。
その後、空海が814年(弘仁5年)に『遍照発揮性霊集』の巻第二に「沙門勝道山水を歴(へ)て玄珠を瑩(みが)く碑 并びに序」という勝道上人の事績を記した碑文(勝道碑文)がある。
勝道上人は817年に83歳で亡くなられるが、その3年前に、人を介して、名勝の地、日光の記述を空海に依頼した。
仲介者と空海は昔からの知り合いだったので、これを引き受けることになる。空海さん41歳のときである。
さも、見てきたかのような記述、筆が走っている感じがするのは、お大師様が、ご自身の若き日の山岳修行の様を昨日のように思い出して書かれているからだと思う。
この辺が流されたというものだろうか?
何となく「石積み」がされているし、他のお地蔵様のように、赤いよだれ掛けとかが置いてあり、在るかのような振る舞い。
こういう「気持ち」ですわな、日本人の心。
光明真言か。
それぞれのお地蔵様に書かれているのは、僧侶の名前のようだ。
これも、僧侶の供養のためと「念仏供養・・・」とあり、阿弥陀様の梵字がある、板碑によく見られる形。
鎌倉将軍の護持僧として仕える僧侶が輩出します。
この頃には神仏習合が進展し、三山(男体山・女峰山・太郎山)三仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)三社(新宮・滝尾・本宮)を同一視する考えが整い、山岳修行修験道(山伏/やまぶし)が盛んになります。
室町時代には、所領十八万石、500におよぶ僧坊が建ちならび、その隆盛を極めます。
・・・ということが輪王寺のHPに書かれている。
そういう僧侶たちの供養のために建てられたのだろう、と思う。
おそらく、埋葬と墓標という概念が無かった頃、埋葬とは別に墓標を立てることが見られた。
ひとつの板碑に阿弥陀様の梵字と、供養する(成仏を願う)者の名前が書かれている。
やがて、その下に分骨を埋めるようになって、それが「埋葬と墓標」になるという流れもあったようだ。
そういう場合、墓標は1箇所に集まるようになる。
その形だと思える。
それで、輪王寺で無くなった僧の供養のための佛様が立ち並ぶこととなったのだろう。
これも、板碑によくあるもので、梵字は阿弥陀三尊だろう。
とりあえず阿弥陀様の極楽往生を願い、やがて「弥勒の三会」によって、兜率天往生を願う、という思考があったらしい。
(以下、Wiki先生)
弥勒は現在仏であるゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。
それまでは兜率天で修行(あるいは説法)しているといわれ、中国・朝鮮半島・日本では、弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰(上生信仰)が流行した。
前述のように弥勒の下生は56億7千万年後とされているが、この気の遠くなる年数は、弥勒の兜率天での寿命が4000年であり、兜率天の1日は地上の400年に匹敵するという説から、下生までに4000年×12ヶ月×30日×400年=5億7600万年かかるという計算に由来する。
そして、後代になって5億7600万年が56億7000万年に入れ替わったと考えられている。
その未来仏の出現する時代は厳密には定かではなく「遠い未来」の比喩ではないかとの説もある。
弥勒菩薩はバラモンとして娑婆世界に出世して、シッダッタ同様に出家したのち竜華樹下で悟りを得て、三度にわたり説法を行い多くの人々を救うという(これを竜華三会という)。
『弥勒下生経』には、初会96億、二会94億、三会92億の衆生を済度すると説いている。
なお、現在の弥勒はまだ修行者(菩薩)だが、遠い未来の下生の姿を先取りして弥勒如来、弥勒仏と呼ばれることもあり、如来形の仏像も作られている。

この記事へのコメント
007
あと、一番の絵ですが、12年前の開業時に九州・天岩戸神社に参拝の折、天安河原に向かう道中で撮影したカットにソックリです、、、後にパワースポットだと知りました、。
ラージフォーマット機の威力発揮ですね(^^)/。。。
三日ボーズ
後の人がそれに続いて・・・で、このようになったでしょう。
おそらくそれは「異質な風景・得意な風景」ゆえ、だったんだと思えます。
風景に聖域と思える何かを感じたのでしょう。
まだ「ただ撮っただけ」の写真になってますね。
ここに気持ちを込める撮り方を模索中です。
「聖なるもの」を何とか表現したいものです。
そのためのラージフォーマットでもあるので・・