色々区切りがついた・・・

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御詠歌の検定を受けました。

検定というモノがあって、それによって、階級の如き物が付与されるということで、我々師範にも、壇信徒の講員さんにも、寺庭さんにもそれぞれの階級があります。

私は、これまで一番下っ端の「准師範」というヤツだったのを「五等師範」というのに上げようかと思った次第。
ベテランのような顔してましたが、実は一番下っ端だったのであります。

これをいただいたのは、確か平成14年頃だったような・・随分経ちました。

「初心者入門コース」というのを東京の別院で確か2年間受けて、最後に検定していただいたんだったと記憶。
遙か昔になってしまいました。

何を今更検定?と思われるのでございましょうが、一応は「去年息子に先を超されたから」と言ってはおりますが、ホントのところは・・・
「今の能化(のうけ)さまの名前が入った賞状みたいなのが欲しいな」と、思ったわけです。
副住職がいただいたのを見て「オレも欲しい」と思った次第。

「前の前」の能化さまは、ホントに尊敬できる方でした。
その「前の前」の方も学者様で尊敬できる方でした。
今の能化様は、学生時代の声明の先生であります。
いや、もう、ホントに、心底から能化様に相応しい方であると思います。
その能化さまのお名前(の書かれた賞状のようなもの)が欲しいと思ったのですよ。

昨日は青年会の皆様へのお話をさせていただくため、その準備で、あまり御詠歌の準備も出来なかったのですが・・・
ど〜も、御詠歌には集中できないんです。
最終的に「こんなもんでよかんべ」的に切り上げます。
案の定、終わってからの評で、検定の先生から細かい間違いの指摘を受けました。
詰めれば、出来たんでしょうが、どうも、ソコまでの気持ちが起こらなかった・・・のであります。

ど〜しても「こんなもんでよかんべイズム」が出てしまいます。
これは、御詠歌を一生懸命やってる方には、ナメてるように映るかも知れませんですね・・・

今回も声を褒められましたが、自惚れるワケでは無くて、声は天性のもの。
お経も御詠歌も「良い」と思っていただけるなら、それはこの上なく有り難いこと。
良いと思っていただけることが第一だと思っていますから・・。

初め、御詠歌の研究をしようかと思ってましたが、声明方向に方向転換しました。
御詠歌は、元々は民謡のようなものですから、あれこれ細かくア〜ダコ〜ダ言うものではなく、気持ちよく唱えられれば良いと思うのです。

そう思ったら、御詠歌はどうでもいいや、と思うようになって、向上心のようなものを無くしてしまいました。

故に、准師範。

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検定を終えて、映画「シン・エヴァンゲリオン劇場版:Ⅱ」を見に行ってきましたです。

「やっと・・・」です。

やっと「エヴァ」が終わりました。

テレビ版は、いい加減テレビアニメから離れてしまった時期だったので見てなかったのですが「新劇場版」が気になって、テレビ版を見て「なんだこりゃ?!」と思ったものの、これをどう作り変えるのか?ということと、アニメーションとしての出来は良いので気になって見始めたわけです。

とにかく、役どころのキャラクター以外の人の命を虫ケラ以下に扱っている映画です。
おどろおどろしい描写など、まったくもって嫌いですが、あのどうしようも無かったテレビ版の最終回をどう作り直すのか?という一点だったと思います。

これは「どうして本能寺の変に至ったか」を見たいという「麒麟がくる」にも似たものがありました。

おそらくこれは、監督の結婚する以前の自分と、結婚した後の自分を表現した、ゴクゴク私的な映画なんだろうと思います。

ここは、同年代ですし、同じ時期オタクだったので、わかります。
私も、女房と出会って(見合いでしたが)、変わりました。変わったと思います。
それまではクズと言って良いようなものでした。
人間関係苦手ですし、女性も苦手。
結婚なんかしない(できない)と思っていました。

それが、女房と結婚したことで、女房に助けられました。
「チャンとした人間にならねば」という気持ちで生きてきました。

女房に言わせれば「あなたのどこがちゃんとしているのよ?!」という事かも知れませんが、私としては、精一杯努力したと思います。

それでも、結婚してしばらくはあまり「自覚」は無かったのですが、子供ができたことで「自分は良い親にならねば」という一心で、ここまで来た感じです。

この映画の監督は、自分のカラに閉じこもっているほうが気楽でいいのに、社会的にだんだん大きな立場に立たされてしまっている。
社会人として生きている大人の自分の中に、そう思う子供の自分がいる。
その自己矛盾に苛まれていたのではないか?と思えます。

そこに、奥様との出会いがあって救われたんだと思う。

しかし、映画製作で追い詰められれば、また心の葛藤がうまれ大きくなって行く。
その心理が、そのままこの映画だったんだと思う。

逃げてしまう方が楽。
「やらない言い訳」という逃げ口はすぐに作れる。

私が・・・御詠歌に身が入らない、というのだって「やらない言い訳」に違いない。

皆に「あなたは普通ですか?」と聞けば、おおよその人が「そうでは無い」と思うのだと思う。
皆「自己の殻」というものを持っている。
しかし、皆、外界にいる。
いや、殻の中と外、だ。
人は、生まれてこのから、社会というものの中で生きている。
以前、仏教の唯識のことを書いたけれど、自分の殻の外の物は、すべて「自分が認識した物」に過ぎない。

その殻は「ATフィールド」だと言える。
自分の殻に閉じこもることは「外の世界を認識しない」ということだ。
殻の外の事を認識しない・・・これは若しかしたら、たやすい事なのかも知れない。

「殻の外の事を認識しない」ということの、そのツマラナサを教えてくれたのが、監督の奥様で、この映画は、その奥様への壮大なラブレターだったのでないだろうか?

心の殻、自我の殻、自己の殻は、外界との接触、外界の変化、外界を認識すること、その認識を変えることで、殻の内も変わることができるのだ。
自分はヘンだとか、普通じゃ無いとか、周りはヘンだとか、回りが悪いと決めつけることからは何も生まれないし、心も変われない。

人生・・・・

逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ・・・・・なのだ。

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