お盆・考(その5)
「追善供養」というが、寺で葬儀をすれば、ホントなら「追善」は要らないはずだ。
日本には色んな宗派があり、葬儀にも色んな概念があるが、共通していることは「地獄という物があるかもしれないが、ソコには行かない」というのが葬儀というものだ。
とにかく、故人を往生・成仏させるのが、葬儀なのだから「地獄に落ちるわよ〜」ということはない、というものなのだから、故人のための「追善」ということはない。
引導をした僧侶があると言ったら、自分がした引導法を否定することになるからだ。
回忌の供養は追善ではなく、ただの「供養」。
「供養」というのは本来仏様に対してだけ使う言葉である。
故人は成仏したのだから「供養」でいい。これが供養の本来の形となる。
「魂の安定」が何よりも大切なことで、浄土系で「往生」と言ったって、それは「魂が安定」すればいい、というのが民間が欲しい結論なのだ。
そこに、仏教の理屈は要らない。
逆に、仏教が宗派によってあれこれ言っても、それは関係ない、ということだ。
「理屈は何でも良い。魂が安定すればいい」
・・・これが人々の求めることなのだ。
ここに、仏教との乖離がある。
「葬式仏教」というのは、日本人が求めたものだ。
魂の安定が欲しいから。
葬式仏教の問題点は、違った所にある。
仏教の理屈との齟齬であり、乖離だ。
ボーサンが願頑張って布教して・・・
檀信徒が「そうだそうだ」と納得している所もあるでしょうが、多くは、仏教の理屈は溶け込んでいない。
お盆がそうだ、ということだ。
いや、昔は「施餓鬼」の理屈も浸透していたのかもしれないが・・・
今のお盆に「万霊供養」の認識も「施餓鬼」の認識も無いだろう。
お盆は「故人や、ご先祖様が帰ってくる」ということ。
これをキチンとそのように扱っている仏教の宗派は無い。
盆棚に向かってお経を上げながら「このお経の意味はここでは通じない」・・・と思っていた。
盂蘭盆は、ボーサンを供養する功徳が亡き人に向いて追善となり、墜ちていた人も救う。
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でも、仏教で葬儀をするというとは、成仏させる、ということなので、葬儀をした故人は地獄にも餓鬼道にも墜ちてない。
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盂蘭盆をするのは、日本においては、その葬儀のやり方・その概念と相反することになる。
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それ以外にも、キチンと葬儀や供養がなされない恵まれない霊もいるだろう。
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それを供養することが、自分のためになる。
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そういう自分だって、佛式で葬儀をすれば成仏出来るのだから、この必要があるのか?
・・・ということにある。
極端な論理展開だけれど、客観的に考えれば、これも、事実。
さて・・・どうしたもんか?!
この記事へのコメント
勉強になります
浄土系ならば往生だから、浄土での修行が進んで早く成仏しますようにでも良いと思うのですが、いかがでしょうかね?
追記
故人を没後作僧して真言僧として成仏している以上、居士大姉、信士信女ではなく、不生位にしないと辻褄が合わないのではと思うんです
三日ボーズ
2020年09月06日 11:35
もともと真言では葬式はしなかったはず、という考えですが、受け入れてくれるボーサンは少ないですね。
少なくとも、真言の葬儀のやり方は禅宗のやりかたで、浄土の概念もあるように思います。
「真言における葬儀の受容」というテーマが欲しいと、研究機関の講座のアンケートに2回くらい書いているんですが、実現しません。
戒名に関しては「コッチ」つまり現世では、在家得度者、あるいは、結縁灌頂をした人、という意味くらいに考えております。ボーサンとの区別はしたかったのでしょう。
我々の「遷化」という言い方も、なんだか、浄土的な概念がありそうですし、実は、確固たるイメージは誰も持っていないのでは?と思います。
真言における葬儀は、かなり後から作ったと思えるのですが、案外、他宗の概念・方法など知らないので、そういうことを考えたい、というのが、私の今後のテーマのひとつかな、と思っております。
ただ、本文に書いたように、こういう仏教とかの理屈はどうでもいいから、とにかく魂の安寧をたのむよ、というのが、一般の認識んだと思います。昔も今も。