ペットは往生するのか?
今年になって、ペットを亡くしたことで、考えたことがある。
「畜生道」というのもが何なのか?
地獄絵図というのが、ある。元になったのは、源信さんの『往生要集』。
そこに描かれる畜生道は、畜生の体に人間の首が付いたものが、苦しんでいるようすだ。
それを見ると、畜生道の場所がワカラナイ。
それを描いた者は、人間の行く先のあの世に、そういう世界・・・地獄道・餓鬼道・畜生道、という区分けされた世界がある、というように描いている。
そもそも、その描き方に問題がある。
ペットも含むそこここに居る動物が畜生道なのか、別世界としてのあの世なのか?・・・と思ったわけですが・・・
『往生要集』を見ると・・・
「その住処に二あり」として「根本は大海に住し、支末は人天に雑せり」・・・とある。
つまり、大凡は海に住んでいて、そのほかは人間界と天界にいる、と書かれている。
いわゆる「地獄絵図」が違っている、ということになる。
『往生要集』においても「地獄」は懇切丁寧に描かれているが、畜生道、阿修羅道に関しては極端に少ない。
おおよそ、動物の生きように関しての描写であって、それは、この世に生きる動物であるということが分かる。
ペットも含めての、この世の中に生きる動物が畜生道であるという認識であることを得た。
これh重要。
『往生要集』では、主に家畜を苦しみと見て、畜生道を説いている。
では、ペットはどうなんだ?・・・という大いなる疑問が生じる。
そこまで考えて、ちょうど良いタイミングで、「浄土宗教学院」という研究機関の公開講座があるのをしって、渡りに船と、増上寺に行ってみた。
浄土宗教学院 公開講座
「ペットは往生できるのか」
二人のパネラーがこの件について話す。
一人は、浄土宗教学院・知恩院浄土宗学研究所嘱託研究員 安達俊英氏
もう一人は、教学院理事・大正大学教授 林田康順氏
結論から言えば、両方とも「結果的には往生はする」ということである。
しかし、その流れが違う・・・ということ。
安達氏は、順次往生=この世の一生が終わった時点で往生はしない。動物のままでは往生はできない。
しかし順後往生=一度以上、別の存在に生まれかわった後、往生する、ということはできる。
つまり、一度、人・天に生まれれば、そこから往生することができる。
畜生の廻向(=ペット供養)は大切で、それによって往生も可。
・・・ということだった。
ここで驚いた事がある。
順次往生・順後往生・・・つまり、六道輪廻がきっちり語られているということだ。
ワタシの浄土宗へ抱いたものは、そんなものは南無阿弥陀仏で一足飛びに往生(=成仏)だと思っていた。
安達氏は、法然上人の著作・言葉だけに依って判断する、という立場。
これは、どうかと思う。
とる立場が極端すぎて、論争にならないと思う。
この考えの異常さは、門外漢にも感じることができる。
そんなことはあり得ないと思う。
真言だって、覚鑁上人の研究と著作がなかったら、今は無いと思う。
浄土宗にも同様に、法然上人以降に出た偉人は多い。
この研究者も、法然上人意外には、例えば「聖光上人以降、浄土宗では一貫して畜生の往生を認める」と言っている。
チャンチャン、・・・ではないのか? レジュメの1ページ目で結論は出たじゃんか?!
そのままでの往生ができないのは・・・動物は念仏を唱えられず、三心(信仰)も持てないからだ、という。
ここの念仏往生のテーマの確信があることは分かる。
念仏すれば往生できる。・・・これを、念仏しなければ往生できない、という解するわけだ。
法然上人は、称名念仏という易行を強調された。
簡単なことで誰でも死後の安楽を約束される、ということを強調された。それが、浄土宗の骨髄だということ。
しかし、それを逆に解してしまうのはいかがなものか?
鎌倉仏教というのもが、独自性の強調とともに、排他性を持っている、という面がある。
そういう使われ方をしている、と思えてしまう。
いかに人間として生まれてくることが難しいか。希有なことか。
人間として生まれたから、念仏して往生が容易くてきるのだ。
・・・これは分かるが、この研究者の・・・
「せっかく人間として生まれてきたのに、この一生で往生出来なければ、また三途(=三悪道)に落ちてしまう。
ひとたび三途に落ちたら仏教の教えにめぐりあえず非常に長い時間輪廻を繰り返すことになる。(=往生も成仏もできないことになる)
・・・という弁、これはあきらかにオカシイ。
これは念仏の効用を説いているだけで、浄土宗としては、念仏で往生できるのだから、これは現実的にはまったく当てはまらないはずだ。そうでなければならない。
上記のことは、念仏を唱えれば無い!・・・ということだ。
動物はすでに「三悪道」に墜ちているのだから、往生できないどころか、ナカナカ向け出すことすらできない。
これらの言葉によって、法然上人は、動物(=畜生)はそのままでは往生できないと考えていたと考えられる。
・・・というこの研究者。
しかし「亡き人のために念仏を廻向すれば、阿弥陀様の光は、地獄餓鬼畜生を照らして解脱できる」という言葉もある。
この「解脱」という言い方と「往生」との関係もワカランようだ。何やってんだ? というか、何やってたんだ浄土宗!
法然上人の「問答集を読む」というNHKのテキストがあるので、見たら、確かに「解脱」という言葉が使われている。
これを「往生ではなく苦しみからの解放と見なす」というような、この研究者の視点が、あんた今頃何言ってんの?!・・・という風に思う。
しかし、そのままでは往生できない、ということを飼い主に説くことの難しさをこの研究者は言う。
挙げ句・・・極楽往生できるかときかれたら「それはわたしにはわかりません。わかるのは仏様と本人だけです。私たちにできるのはしっかり念仏して、廻向してあげることです」・・・だと?!
バッカじゃね~の~?!・・・と、もしウチの宗派にこういうのがいたら言うだろ。
何言ってんだ? これが結論とはオソマツ!!
とにかく、法然上人の言葉に限って論じるという立場をとる、ということがオカシイ。
もう一人の方の発表は、取り立てて問題視する点は無かった。
まあ、「往生する」ということだ。安心されよ、ということ。
ただし、気になったのは、浄土宗が、ひたすら「往生」と、六道輪廻を語っているということだ。
これには、正直驚いた。
知らなかった。
そんなのを一気に飛び越えるのが「南無阿弥陀仏」だとばかり思ってた。
宗派が違うと、他宗への理解は無いも等しい。
分かったと思っても、分かってない。
面白いのは、「廻向の念仏をすればなんでも往生するというのであれば、それでは何でもありの真言・天台と同じになってしまうではないか」という質問があり、「クスクスッ」という笑いが起きた。
真言はシャ~ナイ(他宗の理解は難しい)としても、法然上人が勉強された天台をそう評する、ということがまったく理解できなかった。
天台をも「何でもあり」と言ってしまう感覚とは・・・?
逆に言うと、「自分たちは何でもあり」ではない、ということだ。
確かに、法然上人は、天台が持ち込んだウチの「浄土教」に活路を見いだされた。
念仏を、それも名前を唱えるだけの「称名念仏」を選択された。
ちなみに・・・ワタシは、称名念仏というのはあり得ない、と思ってる。
阿弥陀様を念じるとき、そこには阿弥陀様の姿があるはずで、それを否定するかのような教えは不自然だと思う。
観想念仏が正しいと思っている。真言がコレなので、称名念仏という概念が理解できない。
鎌倉仏教と呼ばれるものは、ひとつに特化したものだ、と言える。
禅も、念仏も、法華も、そう。
天台の教えの一部を取って特化したものだ。
それは、易行という事になる。
難しいことはやめて、誰でもできる簡単なことに特化することで、広がった。
その「簡単」ということを誇れば、難しい方は、単にヤヤコシイ、ということになる。
それを否定してもいいが、オカシイのは、天台で、すでに「成仏」が確約されている畜生の「往生」を、何で今、浄土宗が論義しているのか?・・・ということである。
畜生の成仏は、平安初期に決まってた。
法然上人の「選択」に従って「余計なもの」、古いお経なども、選択(=捨てた)ということだろうか?
・・・続く・・・・
この記事へのコメント
通りすがり坊主
ところでペットのことは私も調べたり他の人の意見を聞いたり、いろいろ考えたりしたことがあります。
私の結論としては、ペットのことも阿弥陀様にお任せするということです。
ペットに対して、極楽で一緒に(動物の姿のままで)仏道修行しようねと願って念仏を唱え阿弥陀様にお任せするもよし。
次は人間に生まれ変わって、いつかは極楽でまた会おうねと願って念仏を唱え阿弥陀様にお任せするもよし。
ペットのことを想って願うのが一番大切なことだと思います。
きっと阿弥陀様はペットにとって最も良いお導きをしてくださると思うのです。
南無阿弥陀仏
三日ボーズ
近いうちに、続編書きます。
浄土宗、ディスるかも(^_-)