ワタシも、以前の記事では竪義と論義を混同して書いておりましたが、そうではない、ということがわかりました。
保延6年(1140年)、高野山を追われた覚鑁上人は、弟子と共に大伝法院の荘園の一つであった弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移し、やがて根来寺を成立させていく。
康治2年(1143年)覚鑁上人は入滅し、根来寺奥之院の霊廟に埋葬された。
弟子たちは高野山へ戻るも既に金剛峯寺との確執は深く、ついに正応元年(1288年)、高野山・大伝法院の学頭であった頼瑜僧正が、密厳院とともに、大伝法院を根来寺に移した。
ここに、真義真言宗が成立する。
智積院は南北朝時代にこの大伝法院の塔頭として真憲坊長盛が学問所として建立したものである。
頼瑜僧正が根来山で竪義を始めたという。正安元年(1299)12月16日。
頼瑜僧正は、入寂前年に、病床に弟子たちを集めて、自分の没後、弟子たちが教学研鑽を怠ることのないよう、毎年忌日に竪義を執行するよう遺訓したという。
しかし・・・
天正13年(1585年)、根来寺は豊臣秀吉によって焼き土に遭い、全山滅亡する。
智積院の住職であった玄宥僧正は、弟子たちを引きつれて寺を脱出して高野山に逃れる。
その後、玄宥僧正は新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興運動を願っていたが、折しも関ヶ原の戦いでにっくき秀吉が敗れ徳川家康が勝利。
その翌年の慶長6年(1601年)、家康により、京都東山の豊国神社の付属寺院を与えられ、智積院は再興した。
この間、竪義などできる状況にはなかった。
智山の竪義は高野山に由来する。
長く途絶えていた竪義を復活させたのは根来焼き討ちから110年後の、元禄9年9月15日であった。
それに先立ち、時の能化第九世宥鑁僧正が、優秀なる学侶4人を高野山に登らせ、高野山の竪義を学ばせ、智積院に伝えたという。
時に元禄時代。日本中が好景気に恵まれ、色々な文化が育った時代。
寺にも余裕ができたものと思える。
元禄5年が興教大師550年御遠忌で、その前、元禄3年には「興教大師」の大師号を下賜されている。
御遠忌に向けての機運があったということだろう。
流石に御遠忌には間に合わず、興教大師550年御遠忌には「法華八講」が勤められたという。
これはこれで興味深い。
一方の豊山派は・・・秀吉の根来焼き討ちの後すぐ、専誉僧正の一派は、奈良の長谷寺に入山することができたが、竪義は廃絶した。
豊山派で再興したのは、智山とほぼ時を同じくして元禄3年(1690)であるという。
小野塚輿澄僧正の『掌中抄』には・・・
伝法大会は教相の神髄を論義決択するものにして、南都維摩会の模式である。伝法潅頂を共に事教二相の源底を尽くす法式作法であるから、之を両大会と唱え、以前は此両大会已講のものにあらざれば権大僧都已上に昇級することはできなかった。・・・とある。
豊山派の竪義は南都に習ったと聞いたことがるが、もしかしたら、この「南都維摩会の模式であるという記述からそう思っているのかも知れない。
これが、もともとの竪義のことなのか、再興のことなのかが判別しにくい。
しかしながら、伝法潅頂と伝法大会というものの在り方は智山と同様であり、おそらく新義派として一緒だった時からのやり方・考え方が継承されているのだろう。
しかし・・・「明治34年以来中絶」しているという記述がある。
そして大正14年に再び再興された、とのこと。
この時は、智山に習ったと聞いたことがある。
豊山派の声明家・中義乗師について書かれた『声明業の生涯』には、中師が「昭和14年4月8日智山伝法大会にて第十三会(え)の精義者厳修」とある。
ちなみに竪者は篠山明信とある。(もしかして写真家の篠山紀信さん関係?)
そして、「昭和15年4月11日 豊山伝法大会復興第一回・竪者厳修」とある。
また、『豊山伝法大会儀則』には、阿部快元師が「大正14年再興の時には、講堂で修行せりという。昭和15年平岡能化の時に再興され現今に至るは講堂なり云々。・・・と記されている。
細かく途絶えているという感じ。
昭和の再興の折には、中師らが智山に赴き、伝承を受け、長谷寺に持ち帰った、ということのようだ。
『智山法要便覧第2集』の「伝法大会厳修者名簿に、中義乗師・篠山明信師の名前が見られる。
・・・ということで、今の、豊山の法式は智山に習ったものであるということでいいのだろう。
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