よく「智山・声明、長谷・論義」とか言うのでありますが、どっちの人間が言ったかワカランことでもあり、何を言いたいかもワカンネ・・・。
智山は声明が良くて、長谷寺の豊山派は論義が優れている・・・ってことなんだろうけど・・・
豊山派でも、豊山の声明がいいと思ってるに違いないし、ね。
・・・というワケで、何度も書いてることでありますが、また、勉強する機会があったので、まとめてみます。
結論としてちょっと問題も見つかったでつ・・・。
今、我が智山派では「論義」というと、御遠忌などの大法要で修される「三問一講」というものと、伝法大会(でんぼうだいえ)で修される「竪義(りゅうぎ・能化様晋山の年)」と、毎年12月に興教大師報恩講として行なわれる「報恩講論義」の3つがある。
では、この三つがどう違うのか?というと、実は良くわからない。
智山伝法院選書『智山の論義』所収、苫米地誠一氏の論によれば・・・
興教大師覚鑁聖人(原文まま)が高野山上に創設された大伝法院では「伝法談義」が行われてきた。
この伝法会は道興大師桧尾僧都実慧が東寺に始めた伝法会に次いで、中院僧正真然大徳が高野山に創始された春秋二季法会の復興を目指したものであるが、この伝法会では談義が行われていた。
現在では、この談義もまた論義であるとされ、更には伝法会であることから、今の伝法大会竪義とも混同されているようである。
この論義・竪義・談義という言葉については、栂尾祥雲博士以来、種々に述べられてきているが、みな論義の一形態を指すもののようにみなされ、十分な検討がされているとは思われない。
まずここに「伝法大会・竪義」の成立と、その意義にについての疑問が投げかけられている。
これは、論義も竪義も「シナリオ化」されたことで曖昧になってしまったものと想像できる。
談義は、その言葉から、同じ立場の者たちによる、形式化されいない話し合い、という印象がある。
論義は、やや形式化されるが、テーマ等に自由さを感じるし、その目的が曖昧である。
この2つは「経講論義」として、「講じる」ということに重きを置いているようにも思える。
つまり「講義」がメインであるのではないだろうか?
一方「竪義」は、高等な試験であるという意味で「目的」がハッキリする。
・・・ワタシには、かような印象を感じる。
真言が行なう論義は、南都の論議を移したものであるとは、良く見聞きする。
いわゆる、南都三会。すなわち「宮中・御斎会(みさいえ)、薬師寺・最勝会(さいしょうえ)・、興福寺・維摩会(ゆいまえ)」の3つである。
これらが、始められた当初、どのような形だったのかは分からないようである。
南都三会の中で最も早く創始されたとされる興福寺の維摩会は、当初、講経・講演というもので、お経について論じる、という形だったようだ。
藤原鎌足が病気平癒のために維摩経を講演せしめたものと言われている。
それより早くは「仁王会(にんのうえ)」があり、これも講経法会である。
天下太平・鎮護国家を祈願するために「仁王般若経」を講説・讃嘆する法会であり、祈願の法会が、即ち講経法会だったということだ。
法会と言えば当たり前の、今のような読経の形が、当時あったかのかは分からない。
『続日本紀』弘仁4年正月14日に、『最勝王経』を講し終わったと、付随して論義をしたという記述があるという。これが「内談義」の始まりのようだ。
これは、今でも講義の後に、聞いていた者が質問をし、話し合うのと同じようなものだったのではないだろうか?
薬師寺最勝会においても、初期には論義の形跡はないという。
ただし、竪義が行なわれたことは記録にあるらしい。
法会の初期にはお経について論じ、やがて、講義の後に論じるようになり、立場の違う者たちの論争もあったろう。
それが即ち祈願の法会だったりしたワケだ。
奈良の大仏開眼法要には、唄・散華・梵音・錫杖という四箇法要が成されたと記録にある。
東アジア周辺の諸外国からのゲストの歌や舞いがあったという。
そこで、法要の形はできていたと考えると、その後、それが消えるとも思えない。
声明を考える時、分からないのがこの部分だ。
今のような法要を行なうようになったのはいつなのか?・・・である。
論義は、あることに対して、論を戦わせる、あるいは、疑問を投げかけるなどするものだと思える。
立場の違う者の論争というものにもなった。
対して、竪義は、若い僧などの知識を試す試験となる。
ここで明らかに目的が違ってくるのが分かる。
竪義と論義は明らかに異なるものと言える。
竪義は、僧侶がその修学過程における習熟度を見る試験である。
延暦25年(806)には、華厳・天台・律・法相・三論から各々2人の年分度者を定めていた。
毎年、国家公務員たる僧尼の出家得度の定員が決められていた。
この公務員試験のようなものに竪義(立義)が行なわれていたようだ。
智山の本山で毎年行なわれる冬報恩講の元は・・・
本山・智積院が元々あった、新義派の原点・根来寺に由来する。
興教大師覚鑁上人の忌辰における冬報恩講が、その荼毘所である菩提院に集まって行なわれた。
この聖地に集まって論義をする、ということで興教大師への報恩の気持ちを表しているということだ。
これにより、この集まりを「菩提院結集(ぼだいいん-けつじゅう・通称「ボダケツ」)」と呼んでいる。
「菩提院結集」というのは、智山派の上臈の者、という意味合いがある。
ぶっちゃけていうと「能化さまへの順番待ち」というような面もあったりする。
ここで、菩提院結集=報恩講という関係が見てとれる。
さて、遡って、覚鑁上人の「伝法会」は、弘法大師亡き後、真然大徳が開いた「伝法会」に由来するという。
「伝法二季会」ともいい、春に三業の法門を伝授する修学会と言い、秋に、前に修学した経論の誤りを正す練学会と言ったという。
それを覚鑁上人が高野山において復興した。
ここに「伝法」の文字があるが、これは現在の「伝法大会」の「竪義」とはまったく違うものである。
単なる勉強会のようなものだったのではないか?
論義、あるいは談義か・・・?
この区別もハッキリしない。
問答、という言葉もあるが、同様である。
現在の「伝法大会」の名称の由来は知らないが、この覚鑁上人、或いは真然大徳の「伝法会」に源があるのかも知れない。
しかし、これは竪義ではない、ということに注意すべきである。
・・・続く・・・・
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