勉強会で、頭 グチャグチャになる
11月28日、別院・真福寺において、勉強会。
「智山談話会」主催の講演会。
「鎌倉南北朝期の僧侶集団と密教」というタイトル。
講師は、法政大学 文学部史学科 専任講師 博士 大塚紀弘先生。
結論から言うと、我々が教学方面から考えていた歴史観と、いい加減なうろ覚えの学校の歴史と、歴史学的アプローチとのギャップが埋まらない・・・。
この時代、旧仏教と呼ばれた仏教(=顕密仏教)は、天台に代表される流れと、奈良から続く流れがある。
そこに、どうも真言密教がやや独自性をもって加わっているという感じか?
空海さんが書かれた『平安城太上天皇潅頂文』(835)にある「8宗」・・・すなわち、律宗・倶舎宗・成実宗・法相宗・三論宗・天台宗・華厳宗・真言宗に始まり・・・
醍醐寺、義演が書いた『義演准后日記』(1595)にある、真言宗・天台宗・律宗・浄土宗・日蓮宗・時宗・一向宗まで、その時代時代の人が書いた、当時の宗派の列記が資料として提示していただいた。
これが興味深い。
ワタシなどのボ~~~ッとした認識では、奈良仏教は、とうの昔に衰退していたと思いきや、1500年代まで、列記されている。
この時代、それまでの仏教に、念仏者、禅家、律家という流れが生まれる。
・・・という話だったが、今これを書きながら、「律」は奈良以来の流れではないか?・・・と気がついた。
さて・・・
日本の仏教に「宗派」というものを築いたのは空海さんで、自ら「真言宗」と名乗ったということ。
しかしながら、天台にも台密と呼ばれるように密教があり、これは、最澄さんの時には中途半端で、空海さんに教えを請うたわけですが、後の人が中国に学んで大成した、ということだったと思う。
それは、空海さんの密教とそれほど違ってはいなかったのではないだろうか?
そういうこともあるのか、当時、真言も天台も含めて、密教的なものは「真言」と呼ばれていた、らしい。
混沌としていたということか?
顕密仏教では、戒・定・慧(持戒・禅定・智慧)の三学が重視され、顕密の両者を習得した僧侶が高く評価されたという。
・・・ということは、大乗戒壇を作った最澄さんの思いは反映されない、ということになる。
以前書いたように、大乗の僧侶は大乗戒でいい、という最澄さんの思い違い、である。
大乗を高校とするなら、小乗は義務教育。小乗の上に大乗がある。
なので、この話は確かだと思うし、ならば、最澄サンがどう評価されていたのか知りたい。
朝廷の主催する顕密の法会と密教の修法には、顕教の「四箇大寺」(東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺)と、密教の「三門真言」(東寺・延暦寺・園城寺)の僧侶が招かれたという。
延暦寺と園城寺が顕密を兼ねている。
東寺というのは、仁和寺・醍醐寺などの、空海さんからの密教ということのよう。
この顕密の各々僧侶集団は、今の宗派という認識ではなく、共存するかたちで、兼学もあった。
ただし、純密である真言は、他の顕密とは別の扱いだったよう。
鎌倉より前の顕密仏教は、体制に絡んで次第に日本化した面を持つが、鎌倉時代には、中国との貿易も盛んになり、頻繁に往来する貿易船に乗れば、中国に行くことも比較的容易になっていた。
栄西さん・道元さんなどが中国に行って、中国の禅を輸入する。
中国化とも言える面もある。
これは武士に受け入れられ、鎌倉時代に成長する。
興味あるのは、天台で学んだ禅僧が、密教も学んでいるということと、その伝授を弟子にもしているらしいこと。
つまり、自分が学んだことは弟子にも伝える、ということ。
そういう面からも、昔には今のような宗派意識はなく、混沌としていたということ。
多くは天台系の密教だけれど、顕教と言われるボーサンたちも、密教の伝授を受けていたひとも多いのだろう。
本山=末寺、というのは江戸時代に、寺を政に取り込んだ徳川の考えたこと。
そこで整理されたのであって、それまでは「宗派」という集合体としての意識は薄かったものと思える。
それよりも「お寺」だったのだろう。
例えばそれが高野山だったり、例えば智積院だったり。
長谷方とか、根来方とか言って、お寺の流れだったのだろうと考えられる。
歴史学的分類とかはどうでもいいが、宗教、あるいは、宗派の教学的見地でなく、歴史的・客観的な視点での研究というものも、必要だということが分かった。
宗派の教学と、歴史研究者と、民俗研究者が共に研究をすることが望ましいのだろうな~と思った次第。
ちなみに、日本の仏教はすべて「密教」であるとも言える。
仏が説いた教え・・・小乗仏教
仏に成る教え・・・大乗仏教
仏であるという教え・・・密教(金剛乗)
浄土系が微妙だけれど、禅宗だって、この考え方なら密教である。
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