仏教とは・・・(その7)葬式仏教とは
日本における仏教にカンする本など見るにつけ疑問に感じることがある。
それは、仏教を時系列でキチンと捉えているものが少ない、ということだ。
仏教の歴史を示した本などは、当然歴史の流れを語っているが、思想的なものになると、とたんにグチャグチャににってしまう。
その典型が、左程勉強せずに書かれたのが明らかな『仏教「超」入門』という本だった。
これが、あまりに勝手なことを書いているので、その点を、ワタシなりの解釈で綴ってみたのが、これまでの流れ。
例えば、「仏教に救いを求める」という人がいるし、我々も「救い」ということを言うし、「救い」というものが仏教には当たり前、と思いがちだけれど、それは、「ジャータカ物語」があって、「お釈迦様の超人的な慈悲」が「成仏への道であると考えられ、時同じくして、仏教が大乗化してからの話。
仏は「在るもの」から、「成るもの」となって、「我々は仏である」という思想に変わってゆく。
そういうことが時系列に関係無く存在している、ということが、仏教を分かりにくくしている。
加えて、宗派の違いがある。
おまけに、この宗派というヤツは、自己を語る上で、他を差別視する傾向がある。
それが、なお、混乱を来す。
・・・これが、日本の仏教の現状である。
そこに、日本人独自の意識が加わるから余計にややこしくしている。
研究者の多くが、この日本の土着的思想というか、感覚を、仏教の「本道」ではない、というような見方をしがちである。
ウチの宗派にも、壇信徒向けの冊子に、地獄や輪廻を解説している者がいる。
学者としての見識が、極めて薄っぺらいと言わざるを得ない。
宗教と民俗は密着したものだ。
それを本来の仏教では無いと見て、感心を持たないのは、宗教の研究者として相応しくない。
輪廻は、日本では「あり得ない」。・・・これが大前提である。
インド人に民俗に深ぁ~く根ざした考えで、お釈迦様の悟りには相応しくないと思えるけれど、教えを説くときには引用しているというものだと思える。
しかし、インド人にとっては「輪廻」ぬきに考えることはできず、後の仏教に残ったのだろう、とワタシは思う。
「ダライ・ラマ猊下の生まれかわり」という考えは、輪廻以外のなにものでもない。
それだけ、仏教と輪廻は結びついている。
そういう輪廻が、インドでどうであろうと、日本には馴染まない考えだった。
これについては、随分前に書いたけれど、「そんなのカンケ~ネ~」というのが日本人。
七日×七日、そのどこかの「七日」で、どこかに生まれかわってしまうから、四十九日過ぎたら、その人の魂のようなものは、もうどこにもいない。
・・・こんなことは日本人にはあり得ない。
日本人の心は・・・「亡くなった人はどこかにいて、生きてる人を見守っている」ということを大切にしている。
だから「輪廻」しちゃイケナイのだ。
日本の仏教においては、これが大原則。
だから、インドに輪廻があろうが知ったこっちゃない。・・・のが日本仏教。
これは、原始仏教が、大乗になり、密教(金剛乗)になったのと同じこと。
日本に於ける仏教のひとつの展開。
中国において、浄土思想が具体的になって、日本でまた変化(順応)して、定着した。
それが、葬式仏教。
ここを軽んじる「研究者」が多い。
というか、仏教研究者の多くがここを避けるかのように、否定的・・・というより、遡って「良し」とする傾向がある。
宗教を考える時に「民俗学」を抜きに考えてはいけない。
(自称)宗教学者の島田裕巳などは、その典型。
現世利益の仏教が、その展開として「あの世の成仏」ということに主眼を置くようになる。
あの世のことを言いつつ、しかし、これは「現世利益」のバリエーションだと、ワタシには思える。
例えば浄土宗とか、浄土真宗のボーサンが何と言おうと、葬儀は現世利益だと思う。
それは生きてる人があの世の成仏とか往生を「願う」からだ。
真宗だと、念仏は願うものではないというだろうが、それは近代真宗・浄土真宗の理屈が極めて不自然なのであって、人間の素直な気持ちは、成仏・往生を願うものに相違ない。
前にも書いたように、古墳時代(古墳=墓、つまり「お墓時代」)には、力有る者は、自分専用の「山(=陵)」を造って、そこに埋葬された。
亡き人の魂は、山がある所では山に、海がある所では海の向こうに行くと考えられていたからだ。
山は霊場となる。
そこは霊力があり、山岳信仰となる。修験道が正にコレ。
縄文時代の遺跡には、村の中にお墓がある。
人の生活は、亡き人と共にあった。
それだけ、亡き人・先祖というものを大切にした民族だったのに、平安時代、都では(都に限ったことだったのか?)、死体を粗末に扱っていた。
中国由来の風水などの影響だろう、「死の穢れ」を極端に恐れる社会になってしまっていた。
何かあれば、陰陽師に占ってもらい、物忌みの日には外に出ないとか、そういうことで縛られた社会だった。
967年に出された『延喜式』によれば、人の死・お産、家畜(馬・牛・羊・犬・豚・鶏)の死・産、肉食、改葬、流産、懐妊、月事、失火、埋葬に穢れが発生するという。
人間の死穢が最大で、穢れが消滅するまで30日かかるという。
人間の産穢が7日。家畜の死穢は5日。・・・というように、規定されていた。
ただし、失火の穢れに関しては、穢れを恐れて消化等をしないことは困るので、後年「無し」になったらしい。
また、この「穢れ」は伝染する。
Aさんが閉ざされた空間にとどまって死穢に触れたのち、Bさんの家に行くと、Bさんの家の者は全員が同じ死穢に触れたことになる。
そして、それはAさんと同じ力を持つとされる。
道路脇など閉ざされていない所に死体があった場合は、脇を通っても死穢は伝染しないらしい。
弘長2年(1262)に、鎌倉幕府は、路頭に死体を捨てることを禁止する法を出している。
ということは、1262年に、鎌倉では、死体を捨てるというとこが行なわれていた、ということだろう。
平安時代には、病人が捨てられるということもよくあることだったようだ。
中には、死期の近いことを感じた人が、自ら河原に行って死を待つということもあったという。
それは16世紀ころになっても行われていたらしい。
かように、日本人は、ご先祖様を思う気持ちがあったはずなのに、こと「死体の処理」ということに関しては、ノウハウが無かった。
「穢れ」という考え方が、大いに邪魔をしていたということだ。
京都の鴨川は死体を打ち捨てる所だったし、多少埋葬の意識があった者は、東山へ運ぶ。
大きな川の河口から人骨が出ることはあるらしいし、浜辺から大量の人骨が発掘されることもあるという。
縄文時代には、キチンと埋葬していたのに、どこでそんなことになってしまったのか・・・
都市化と、文明の澱みだったのかも知れない。
遁世の僧が民間信仰の対象になるまでは、僧侶はあくまで官僧だった。
国家公務員であり、その人事権も朝廷にあった。
即ち、国家鎮護の資格を与えられる、ということが官僧、ということで、権限と同時に、制約もある。
その大きなものが「穢れ排除」である。
朝廷において、鎮護国家の祈祷をする以上、絶対に穢れに触れてはいけない、ということ。
なので、平安時代の官僧は、死に触れてはいけない、というのが絶対条件だったと言っていい。
以前書いたが、そういう理由で、真言宗・天台宗はしばらく葬儀などするわけがなかった、ということである。
延長8年(930)、9月29日に崩御された醍醐天皇の葬礼に際しては、仏教の僧侶が埋葬等にも関わったという記録があるが、具体的にどのような葬儀が行われたのかは分からない。
偉い坊さん、例えば、弘法大師、興教大師、最澄さん・・・そこまで行かなくても、ある程度の方は葬儀的なものをしたのだろう。
しかし、具体的な方法はわからない。
しかし、官僧といえども、死ねば打ち捨てられたのだろう、ということは、二十五三昧講の発生をみれば分かる。
そういうのが悲しいから、自分たちは、お互いの死を看取って、弔ってゆこう、という結社なのだから。
以前、現在の葬儀は、禅宗のやり方に従っていると聞いたことがある。
・・・この記事は、松尾剛次・著『葬式仏教の誕生』を元に書いています。
この本、お薦めします。目から鱗でした。
この記事へのコメント
通りすがりの坊主
ご紹介の本今度読んでみようかな。
三日ボーズ
あくまで往生がテーマですから。
私が言うのは「往生を願う」ということ自体が現世利益であるという矛盾を指しています。
仰ることは、後年の付け加えだと思いますが・・
それを徹底した真宗は可笑しなことを言っちゃってる、と私らから見れば思えるということです。
通りすがりの坊主
心の持ちようが変わるということですね。
後付けどころか、おそらく浄土教の始まりにも関わってくることだったのではないかと思います。
ただ、仏教は対機説法ですから、このことは万人に当てはまることではありません。
お念仏を唱えることは来世利益だけだと思うことの方が納得でき、より良い仏道が歩めるなら、それはそれで良いことだと思います。
極楽浄土など無いと言われる他宗のお坊さんもおられますが、それはその方にはそれで良いのです。
例えるなら人それぞれ持っているカメラと腕が違えば、同じ被写体であっても出来上がる写真が人それぞれ違うし違ってもいい、大切なことは自分にとって満足できる写真を撮ること、ということですかね。
通りすがりの坊主
大切なことは自分にとってより良いカメラライフを送ること、かな。
三日ボーズ
かなりの、コジツケだと思えます。