仏教とは・・・(その8)葬式仏教とは

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比叡山横川の「二十五三昧式」というのは、死んだら亡骸をうち捨てられることないよう、自分たちできちんと弔いをしたい、という思いが込められたものと考えられる。

逆に言うと、ボーサンであってもそういう扱いだったということだと思える。

地獄の恐ろしさを綴り、おそらく今で言うベストセラーになったであろう『往生要集』にその方法が書かれているというが、魂は往生しても、遺体の扱いが悲しすぎる、ということを感じ、それをどうするか?

・・・という模索がこれをきっかけに始まったと言って良いのだと思う。

「二十五三昧式」では・・・
往生院という別所を建て、仲間が病気になったらそこに移して、香華・幡・天蓋に囲まれて死ぬことができる。
お墓を決めて花台廟とし、卒塔婆を立てて陀羅尼を込めておき、仲間が死んだらここに葬る。死者は仲間が葬送し、終夜念仏し、遺骨を埋めてそこで念仏し一緒に帰る。
・・・と葬送儀式を定めていた。葬送共同体だった。

松尾剛次・著『葬式仏教の誕生』

葬送を望む気持ちは僧侶だけでなく、一般の人も、キチンと弔いたい、という気持ちが無いわけがない。

ある僧侶が神社にお参りしようと神社に向かう道中に葬送をできずに悲しんでいる人をみて、哀れと思って葬送をしてやった後に、いかがなものかと思いつつ参拝すると、神が僧侶の慈悲を褒めて参拝を許す。

・・・という似たような話が説話集などにたくさん出てくるという。


「人を哀れむ慈悲の心は清浄心であり、穢れはない」という論理展開がうまれてくるのだ。

ここに、葬式を望む人々と、死穢を恐れず葬送をする僧侶、というものが見られる。

この場合の僧侶、というのは、多くは官僧ではなく、遁世僧と呼ばれる僧侶たちであった、ということにも注目できる。

遁世僧というのは、例えば比叡山などで出家得度したのち、官僧となっても、その身分を捨てて自分から仏道修行を志す僧侶である。

法然、日蓮、親鸞、明恵、叡尊等々・・・遁世僧が活躍した時代があった。

『延喜式』よると、人の死穢の場合は忌む期間は30日だった。
この間、官僧は朝廷の行事や神事に関わることができなくなるので、死穢というものは避けなければならない第一のものだった。
律宗の僧、叡尊は、光明真言会という一種の葬送儀礼を行なったことで知られている。
光明真言を唱えて加持した土を墓に撒けば後生で菩提を得られるというこれは今でも続けられ、真言宗ではあちこちでやっている。

まずは律僧と禅僧が多く遁世僧となる。

この律僧に対して「清浄の戒は汚染無し」という考えが出てくる。

これが、律僧が自ら言ったことなのか、世間の要求が自然にそのように向かった結果なのかははっきりしないが、慈悲の心をもって弔いを行なう、という気持ちが律僧におこり、それを正当化する論理が必要になったということもあるだろう。
戒律を守っている自分たちは死穢に汚染されないし、むしろ、そうであるということに自信を持って、自分たちこそが葬送をするべきである、しなければならない、という使命感のようなものがあったのではないか?と思える。

さらに、律僧は、俗人でありながら斎戒を護持する「斎戒衆」という組織を作って、死以外の穢れを生じることを任せていたという。

しかし当初、この律僧の論理は官僧には通じなかった。官僧から見れば、死に関わった律僧は「穢れた存在」だった。

やがて、律僧と同様に官僧の立場から離れた念仏僧も葬送に関わるようになって、「往生人に穢れ無し」という論理も生まれてくる。

この頃「律の僧に穢れ無し」は認めても「往生人に穢れ無し」は認めない、とか、順々に認められていったということが認められるそうな。

それまでは往生というものも、ある限られた人が成せるものだったものが、法然上人が出て、誰でもが念仏することで往生できる、ということになる。

ここに「死体穢れ観」から「死体往生者観」へと変化していった。(松尾剛次)

・・・のである。

命、魂のようなものが離れ、抜け殻・亡骸となった死体は腐りゆく穢れたものであり、処理に困るものであるということを乗り越えて、愛しい人の肉体をもキチンと弔うことができるようになった。

大変な時間をかけてそうなっていった。

縄文時代にはキチンとできていたものを、一度失い、長い時間をかけて、ようやくよりもどしたわけである。

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