一方、「論義」である。
智山派の報恩講は現在冬のみであるが、これを今でも「冬報恩講」と呼んでいる。
これは、根来時代には夏と冬の二回あったからだ。
報恩講は、智積院二世の頃にはあったらしいということ。
同時に、報恩講は、地方の談林所(勉強をする寺院)での報恩講が必須だったようだ。
慶長18年(1613)の「真言宗諸法度」のよれば・・・
「1、新義の僧二十箇年学問の功を積み。住山三ケ年を遂げ、その後帰国法談一会たるべし」
つまり、新義真言の僧は、20年の学問研鑽を積まなければ、一人前の僧侶と認められなかった。
地方談林等で所化(勉強する僧)に指導や民衆教化が許可されなかったのだ。
しかも、そのうち3年は本山に入って研鑽する必要があった。
この研鑽の算定が、冬報恩講に参加して1年と数える仕組みだったという。
冬報恩講の出仕論義を終えて後、陀羅尼会を勤め、陀羅尼帳に名前を記すと1年となった。
ただ、夏冬両方で1年なのかは・・・『智山の論義』小笠原弘道師の論からはわかならい。
しかし、その内「中下り」という制度ができる。
それは、住職であるとか、遠方であるものが、常住できず、そういう者のために、一旦帰国しても、再登嶺して冬報恩講に参加すればいいということにもなる。
元禄の頃には、こう言った修学の制度もおかしくなっていたようだ。
そのうち、地方の談林所で勤めても良いというようになって、何だがな・・・の状態になったりする。
やがて、地方談林での報恩講もイイカゲンに行われるようになる。
まったくしょ~がね~
栗山秀純氏は、『大正大学研究紀要』80号にて、竪義勤修者の特徴について次のように書かれている。
・報恩講において認められた者が伝法会の竪者と精義者を勤める
・伝法会における竪者は、新進気鋭の学僧の登竜門とされ、勤修することにより学僧として公認された
・竪精問答は、竪者の試験であるが、精義者と共に問答原稿を練り上げる
・竪者を勤めた者は、学道の指導的立場となる
元々は、一度の大会で一会(1回)しか行われなかった。
何会もやるようになったのは、明治25年からということだ。
それまでは、少数精鋭、トップクラスの修学者が勤めたということである。
しかも、天保年間くらいまでは、能化様への選挙権・被選挙権を決める条件にもなっていた。
現在、我が方で報恩講には「菩提院結集」という、我が宗の僧侶としての順位の上位が集まる法会になっているが、これは「集まり」というだけで、それ以外の「役割」が無い状態になっている。
一応、新参の専修学院生と、大正大学からの学生の登竜門的な役割は成しているけれど、それだけでは、かつての論義の在り方を考えると、もったいない感じがする。
上座からの僧侶が集まるということは竪義にもあったらしい。
我々は今、竪義の精義者と竪者の両方を「初めて」勤めることで、通過儀礼にしている。
伝法潅頂も、大阿闍梨も受者も「初めて」勤めることで、伝法大会と同様にやっている。
大阿闍梨になって潅頂するのではなくて、潅頂の大阿闍梨を勤めることで大阿闍梨になるという、ヘンなやり方がまかり通っている。
竪義を「僧正」への通過儀礼にするのは相応しくない、と思えてくる。
伝法大会という名前も「論義」の方が相応しいと思える。
色々考えてくると、我々が僧階のための通過儀礼としては論義が相応しいと思える。
例えば、冬の報恩講は、主に専修学院の新参僧侶と、大学からの研修生のための式として、これを登竜門とする。
春(あるいは夏)にも報恩講をやり、それを「僧正」への通過儀礼のひとつとする。
その履修者が、伝法潅頂の大阿(大阿闍梨)になる資格を得て、大阿となり、受者を潅頂する。
で、竪義(伝法大会)は「能化様への登竜門」とし、現能化様が精義者となって、次期能化様が竪者となり、これを能化様への通過儀礼にする。
とうぜん、それを見守るのは、菩提院結集の偉いボーサンたち(順番待ちでもある)、というふうにするとスムーズになるかな?
・・・と思った次第。以上。
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