先日の遊行寺「一ツ火」にて、当ブログを読んでくださっている豊山派「迦遼頻伽(かりょうびんが)声明研究会」の方とお近づきになれ、恭悦至極でございます。
・・・で、その「迦遼頻伽声明研究会」が行なう年3回の法要のウチのひとつが行なわれる、と聞いては行かぬ訳にはゆかぬ、のでございます。
長谷寺で行なわれているものを行なうとのこと。
幸いに、当地より車で一時間とかからぬ筑波山のふもと、雨引観音さまが会場(えじょう)ということで、行って参りました。
「仏名会」(千仏礼)・・・やはり、これは、初めて聴聞するものでありました。
その名の通り「1000」の仏様のお名前をお呼びしながら、五体投地の礼拝をひたすら繰り返す、というものです。
「過去仏・現在仏・未来仏」がそれぞれ1000体づつ、三年をかけてお唱えするという。
一回でお唱えする1000は、「100毎」に区切られ、その度に「慚愧懺悔(ざんぎざんげ)六根罪障(ろっこんざいしょう)」と7回唱え、「南無阿弥陀仏」を21回唱えます。
なんで「お十念」ではない?・・・と、つい思ってしまいますが、これは「過去仏・現在仏・未来仏」と3回に分けて、唱えるようになっていて、今回は「未来仏の会(回?)」だったので、阿弥陀様だったということだそうな。
~~以下、浄土宗のHPより~~
仏名会(ぶつみょうえ)(12月中)
この「仏名会は、毎年歳末に多くの仏さまや菩薩の名をとなえて、さまざまな罪や 知らず知らずのうちに作ってしまった罪などを 懺悔 (さんげ) し、身も心もきれいに なるよう祈念する法要のことです。
この「仏名会」は北インド出身の僧・菩提流支(ぼだいるし=?~527)によっ て翻訳された『仏名経』によって行われています。
『仏名経』には、「およそ1万3 000もの仏・菩薩の名が列挙され、「もしここにある名を読み上げれば、平穏な 日々を過ごせ、諸難から離れ、諸罪が消え、将来、悟りが得られる」と説かれてあり ます。
初めて「仏名会」が行われたのは、宝亀5(774)年に光仁天皇の宮中でのこ と。
承和2(835)年の仁明天皇が行って以降、宮中での恒例儀式となりました。
その後、各地に広まり、寺院などで勤められるようになりました。
浄土宗で行われる「仏名会」は、12月中に日を決め、3日ないし1日、過去・現在・未来の三世の諸仏三千のみ名を称え、南無阿弥陀仏のお念仏をとなえ、 礼拝 (ら いはい) して、罪深い自分自身を 懺悔 (さんげ) する法要になっています。
しかし、 総本山知恩院では、故事にならい、3000仏画像を掲げ、『三千仏名経』をとなえて法要を行っています。
・・・浄土宗だと、阿弥陀様を「選択(せんじゃく)」していることと、3000の「過去・現在・未来の三世の諸仏」との関係が「??」・・・でありますが、おそらくは、海よりも深いわけがあるのでせう・・・。
でも、浄土宗でもやってるんだ・・・と思います。
考えようによっては、「仏名」を「読み上げる」ということは「仏名=称名」「読み上げる=念仏」に違いはございません。
ただ、浄土宗では、読み上げるのを「阿弥陀様」に絞っている、ということ。
それを阿弥陀様だけで良いはずの浄土宗でもやるのか?・・・公式見解が欲しいところです。
それが「宝亀5(774)年」ししても、「承和2(835)年」にしても、法然上人の遙か前であります。
「承和2」は、弘法大師・空海さまがお亡くなりになられた年です。
まあ「仁明天皇が行って以降、宮中での恒例儀式となった」というところが重要なんでしょうね。
HPを色々見てると、高野山真言宗の寺でもやってるみたい。
しかし、我が方には、これが無い。
なんで、ウチは、やらない?
・・・加行(けぎょう)という行を大学一年の冬にやったのですが、この最初が「礼拝行」で、ここで1080回の礼拝を朝昼晩やるから、これが「その行」になってる・・・ということでせうか?
仏様のお名前を100唱える毎に「慚愧懺悔六根罪障」ということから、修験と関係があるのか?と思ったのですが、聞けば、そうではなくて「南都」の影響なんだそうな。
そもそも、長谷寺は・・・
天正16年(1588年)の、豊臣秀吉による根来山・根来寺の焼き討ちにより、根来寺を追われた新義真言宗門徒のウチ、専誉僧正の一派が入山するまでは南都の流れ、だったのだとか。
Wiki先生に聞けば・・・
天武朝の朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。
承和14年(847年)12月21日に定額寺に列せられ、天安2年(858年)5月10日に三綱が置かれたことが記され、長谷寺もこの時期に官寺と認定されて別当が設置されたとみられている。なお、貞観12年(870年)に諸寺の別当・三綱は太政官の解由(審査)の対象になることが定められ、長谷寺も他の官寺とともに朝廷(太政官)の統制下に置かれた。
天安2年(858年)5月10日に三綱が置かれたことが記され、長谷寺もこの時期に官寺と認定、という点と、貞観12年(870年)に諸寺の別当・三綱は太政官の解由(審査)の対象になることが定められ、長谷寺も他の官寺とともに朝廷(太政官)の統制下に置かれた・・・という点が重要なポイントになるのでしょうか?
それに加えて・・・長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となったそうなので、そういうことから、この寺には「仏名会」が生きている、ということなんでしょう。
長谷寺が、専誉僧正率いる新義真言宗が入るまでは南都の寺だった、というのは、盲点でありました。
ソコ、考えたことなかったです。
その東大寺ではどうなっているか・・・↓↓↓
~~以下、東大寺のHPより~~
仏名会は、12月中旬の3日間、「過去」「現在」「未来」の三世諸仏の仏名を唱え、その年に犯した罪障を懺悔(さんげ)し、滅罪生善を祈る法会(ほうえ)。
古くは奈良時代に宮中で仏名を唱える法会が行われたと伝えられる。
平安時代には宮中恒例の仏事となり、その後、諸国の寺院などでも勤められるようになったという。
東大寺二月堂で現在勤められている「仏名会」は、途絶えていたものを大正年間に再興したもの。
12月14日、薬師如来(過去)・釈迦如来(現在)・阿弥陀如来(未来)を主尊とするそれぞれ一千の仏像をえがいた大きな掛け軸を三本、二月堂礼堂正面に掲げて、その前で「過去」「現在」「未来」いずれかの一千仏に、僧侶が礼拝を行う。
したがって、三年がかりで、「過去」、「現在」、「未来」の三千仏を巡ることになる。
この一千仏への礼拝は、仏名を唱えながら、1回毎に、両膝・両肘・額の五体を疊にすりつけては立ち上がる礼拝が基本で、特に下座の者は忠実に実践することが求められ、年によっては千返礼拝(せんべんらいはい)を行う若い僧侶の体から立ち上る湯気が格子(こうし)越しにうかがえるほどである。
先導して仏名を唱える導師の役は、管長以下の僧侶10人が順次正面仏前へ出て100回ずつ分担することになっている。
この一千仏の仏名等を唱える節回しは独特で、末座の者が礼拝するたびに献ずるお香の香りや、山茶花(サザンカ)の花の色あいとともに、風情があり印象深い。
山茶花の花は、二つ並べ置かれた三方(さんぼう)の片方に 二百個盛られており、一度礼拝するたびに他方の三方(さんぼう)に移されてゆく。
山茶花の花の盛り具合で仏名の数の進み具合が見て取れる。
「慚愧懺悔六根罪障」というう語句と、五体投地をただただ繰り返すようすを、「懺悔だよな~、悔過だよな~」と思って見ていましたが、そういうことだったのですね~。
実は、ずっと見ているのもつまらないな、と思って、途中、100仏だけ(^^)/・・・ワタシもやってみたのですが、いやいや、大変でございました~。
1000回・・・・・無理だわ~。
二日経って、まだ、太もも当たりの筋肉がオカシイですよ。(^^;)
豊山派の皆さんには、ケンカしても負けるよ。
体力勝負で負けるよ・・・と思った次第。
この千仏礼と、長谷寺の本堂への一日何回ものプチ登山♡で、豊山派の皆さんの足腰は、とてつもなく鍛えられているものだと思いますよん~。
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