【真田丸紀行】・・・物語のはじまり
記事には書かなかったですが、この一年、見続けたのが、NHK大河ドラマ「真田丸」。
ドラマが終わったら、ゆかりの場所を巡ってみようと思っておりました。
それについて書きながら、ドラマについても書いていって「丸ロス」をなだめて行こうと、ドラマの途中から思っていました。
この度「最終回が明日」という日に、信州大学に行く用事があり、その途中、どこか寄れるところはないか?と思って地図をみれば・・・ありました「真田の郷」。
上田菅平インターチェンジを降りてすぐ。
上田城を中心とした上田市街地のアレコレは、ドラマの前に3度訪れておりましたが、真田の里あたりはバスで巡るのも大変そうなので、車で行くのは幸いです。
「真田氏歴史館」は、戦いの足跡や武具甲冑など真田一族に関する資料が展示された資料館。
まあ、ありますわな・・・の、主演・堺雅人さんのサインとポスター。
真田氏が上田城を築城する以前の居館跡で、地元では「お屋敷」と呼ばれ親しまれているとな。
現在は「御屋敷公園」として整備されているところ。ソコにある神社。
御屋敷皇大神社(おやしきこうだいじんじゃ)なんだそうな。
創立年不詳。
しかし社伝には・・・「この神社境内は真田氏の居館跡にて、真田家三代昌幸公。
砥石城に移るに当たりて、この居館跡を保存せんとて、伊勢神宮の御分霊を勧請奉斎する」とあるそうな。
昌幸公が建立されたものだと知ると、余計に、趣き深い。
鳥居から真田の郷、を見る。
真田本城跡。
「真田の郷のほぼ中心部の小高い山の上にあり、城跡からは砥石城や矢沢城を一望できます。城跡には土塁や郭が残り、自然の地形を活用した真田氏の巧みな築城技術がしのばれます。 」・・・上田市のHPだったかな・・・
「小高い山の上」とありますが、かなり高く鋭角に切り立った山でありました。
以下、Wiki先生・・・
戦時用の山城であり、平時の政務機能は麓にある真田氏館に置かれた。真田盆地の対峰に要害の地戸石城を望み、更に周囲の峰々にも数多くの支城群が連なり、単体の山城ではなく真田盆地を取り囲む山城群の司令部的存在と考えられている。
別名「松尾城」とも呼ばれるが、その場合、鳥居峠方面にある支城「松尾城」は松尾古城と区別して呼ばれる。ただ築城時期を鎌倉時代とすると、松尾古城の方が古いという訳ではなくなり、はっきりしていない面が多い。
築城は戦国時代の天文年間(1532年 - 1555年)に、武田家臣の真田幸綱と伝わる。一方で、城の発掘調査によると縄張りは鎌倉時代の古い様式が見られ、真田氏以前にも山城が存在していたと考えられている。
天文10年(1541年)に甲斐国の武田信虎、信濃国諏訪郡の諏訪頼重、村上義清連合軍が信濃佐久・小県郡侵攻を行う(海野平の戦い)。これにより、滋野氏嫡流の海野棟綱と共に、真田幸綱は本領を奪われ上野国へ亡命した。この当時の真田本城については史料が残されておらず、不明な点が多い。村上氏は真田本城の支城の一つである戸石城を小県郡支配の拠点として使っていた。
天文20年(1551年)に、武田晴信(信玄)の命を受けた幸綱は戸石城を奪取して、小県の本領を回復した。以来、幸綱・信綱・昌幸の三代に渡って、真田本城およびその支城群が整備された。上田城に移るまで真田氏の本城であったと考えられている。
お城の雰囲気は、冬の木の葉が落ちた時に見るのが良い、と思って行ったのですが、所々、段々になって、平らな部分があるなど、お城の雰囲気が良く残っていると思いまする。
真田の郷を見下ろす。
この真田の郷は、おそらく、地形がそんなに変わってないんじゃないか?と思える雰囲気があります。
真田三代が見た景色と、変わってないんじゃなか?という感じ、良いです。
それにしても、三方が切り立った崖のような斜面で、結構高く、上り下りも大変な所です。
生活するといっても、生活物資の運搬や、水もどうしたのか?とか、色々考えます。
攻めるにも、攻めにくい城だな、という感じ。
戸石(砥石)城跡を眺めることができます。
とっても良い雰囲気。
ポツンと仏像があって、よく見れば、お大師様じゃぁあ~りませんか?!
・・・んで、お供えは当然のように「6枚づつ」。(^_^)v
2時間弱しかおられず、ちょっと急ぎ足すぎました。
とても良い雰囲気のところなので、もういちど、ゆっくりしたいと思います。
春がよいでしょうか?
この記事へのコメント
007
私も真田丸観てました、、、、
小生も行きたいな。。。
三日ボーズ
栃木から見れば。
もともと次女が好きだったということから見始めたのですが、これから、時々「真田丸紀行」やります。
信州のチョビ
近くにいらしていたのですね^^
美味しい食べ物も沢山ありますので、暖かくなりましたらゆっくりお出かけください!
三日ボーズ
また行きます。