薬師寺・慈恩会について、ふたたび・・・

「奈良へ行ってください」ということを、法事の時によく話しております。

JRのCMは、「そうだ、京都、行こう」ですが、奈良は、「いま一度の奈良へ」です。
京都は「そうだ」と言って行けるのですが、そこから奈良へは、小一時間。
ならなら・・・いや、なかなか行けませぬ。
修学旅行の時に行って、大仏見て、鹿にせんべいくれて「奈良には行った」と思ってしまう人が多いと思いますゆえ。

奈良のお寺には、お墓が無い、という話もよくします。
奈良時代の仏教は、お葬式をしなかった。
奈良の仏教は、奈良時代のまま続いている、ということです。
これが、日本の文化の特徴だから、です。

そういう事は、学校や修学旅行では勉強しません。
そういうことを「いま一度」大人の視点で見てくださいよ、というJRのコピーは、なかなか良いのでありますよ。

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11月30日。東京・銀座にある「奈良 まほろば館」において、先日聴聞した薬師寺の慈恩会において、竪義(りゅうぎ・論義の回答者・受験者)に立ったボーサンのお話しでした。

奈良学ナイトレッスン 平成28年度 第8夜
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一生に一度だけの挑戦!-約3週間の修行と試験
(写真・奈良まほろば館HPより拝借)

講師の村上 定運(むらかみ じょううん)という方は、先だって晋山された、薬師寺の新管主さまのお子さんということを、私も慈恩会の日に知りました。

宇都宮仏教会では、主催する「仏教文化講演会」に、薬師寺の管主様を、2度お呼びしておりますので、その旨、ご挨拶申し上げたら、管長様が変わられて、今日の竪義がお子様である、と、聞きました。
なかなか希有なことでありましょう。

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今回の話の内容は、奈良の仏教と、薬師寺の話が大部分で、竪義に関しては少なかったですな~。

それを期待して行ったくせに、勝手なことを言うようですが・・・・
やっぱり、自分がした修行について語る(それも面白おかしく)ということには、違和感があります。

比叡山の千日回峰行をした阿闍梨さんが、行について語るのが「得意げ」に見えちゃって違和感があったりします。

ワタシは「修行」そのものの詳しい話は、せぬものと心得ております。

また、行によって得たモノ、得た思い、というものは、やった者でないと分かりませんし、十人十色とも思いますから、それも、自分の場合は、語りません。

どうしても、自慢話になってしまうような気がします。

「自慢話」というのは・・・自慢話が大好きなウチの母を見ていて、それを反面教師として、絶対にしたくない、と思っています。
なので、行のことを話すということはしません。そういうものだと思っています。

「行」と言っても、たかだか2ヶ月の加行(けぎょう)ですけど、ね。
でも、これを二十歳の頃にやった意味は大きかったと、思っています。

そういえば、加行に入る前に、住職に「どういうことをするの?」と聞いたら、答えてくれなかったのは、やはり「ゼロの状態からすべて学んでこい」という意味だったのか?・・・と・・・住職を買いかぶっておきませう。
なので、私も、子供が加行に入るときには、何も言いませんでした。

薬師寺のボーサンは、まあ、フランクな感じで、何でも話していい、という雰囲気ではありますな~。
その行の中で、得た思いが、人の為になることであれば、話すべき、ということで、良いと思います。
確かに、良い話をされていました。

前回の竪者(りっしゃ・竪義に立つボーサン)は、行中にTwitterとか、してたからね~。
随分自由じゃん~~と思ったですが。

時代に逆行する、昔ながらのことを無理遣りする、ということこそにも意味があり、それが、伝統、ということ。
ただ、おそらく、それが当然だった昔と違った負荷がかかってくると思います。
スマホが当たり前の時代に育った子供たちに「2ヶ月間スマホ禁止・ゲーム禁止」ということは、考えてみれば、そういうものが無かった昔の人にはあり得なかった負荷です。
そういう余計な負荷も鑑みつつ・・・行は行なわれるわけです。
昔の通り、みんなが通ってきた同じ道を歩く、ということに意味がある世界、ということですな。

あ、そうそう、奈良の仏教が葬儀をしなかったのは、もともと一般人の葬儀という概念が無かったということと、それは、ひとえに死を恐れたからだと思います。
村上 定運さんは、実に優しい観点で話されていて、違和感アリアリでしたが、まあ、一般の方に説明するには良い方便なのかも知れません。

また、「空」や「唯識」の説明も「??」でしたが・・・ま、同様に、仕方が無いでしょうか?
ホントに説明したらワカランでしょうし。

結局、我々もそうでありますが「教義」というものは、実にメンドクサイもので、それを自分で追求すること(上求菩提)と、一般の人に話すこと(下化衆生)は、別・・・であります。

竪義だって、実にメンドクサイことを言っていて、今回ちょっと話された「成仏」ということだって、観点を変えれば(違う宗派の観点から見れば)ツッコミ所アリアリ、だったりします。
竪義という、宗派の教義の細かい解釈を戦わせる法会に、あれだけの人が集まって聴いている、ということにも驚きを感じました。

おそらく、やってる本人たちにしかワカランことです。

同じ仏教を歩くワタシでも、ちょっと用語が違ったり、観点が違ったり、そもそも元になったお経が違うので、聞いて理解はできません。
私らの論義だって、前もってキチンと勉強して行かないとワカランものです。
後から、勉強し直しても、ワカランかったりするですよ。・・・ホント。

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「奈良まほろば館」では、沢山の講座が開かれてたのね~、ということも、初めて知ったワタシでありました~。

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