1.文化財などがフラッシュによって劣化・損傷する恐れがある。
2.安易に写真を撮る、という行為をせず、気持を込めて参拝して貰いたいという、参詣者の気持の問題。
3.コンサートの録音のように、それによって売れる物が売れなくなるという不利益が生じる(・・・と思っている)。
4.尊きものを手軽に写真に撮るようなことはしてはイケナイ。
5.カメラマンの傍若無人を許すと、色々他にも損壊をするものが生じる恐れがある。
6.管理者の、単に、写真嫌い、カメラマン嫌い。(4)によってそうなることがある。
・・・・というようなことが思い浮かびます。
国宝・文化財の場合は(1)が、その最たる理由であるといえましょう。
おおよそ室内に安置されているような物は、この恐れはあるでしょうから、もともとは、こういった文化財保護という観点が主だったのだろうと想像できます。
しかし、東本願寺など、堂内の撮影が禁止という場合、この理由は当てはまりません。
扉を開けていれば、太陽光は入り、たまに焚かれるフラッシュよりも、その影響が大きいものです。
どれが文化財か分かりませんが、内陣奥にあるものがそうであれば、それはかなり奥まっていて、フラッシュの害の程度は、極めて低いか、無いものと考えられます。
それ以外に、堂内に撮影して悪いようなものは見当たりません。
堂も、いや、どうも、この東本願寺の「堂内撮影禁止」は、必然性と説得力に欠ける、イメージだけのもののように思えてなりません。
「有り難いものだ」と思わせたい、という意識のように思えます。
「有り難いものだから撮影禁止」という安直さが垣間見えて、説得力を欠くのだと思います。
神様や秘仏のようなものです。
有り難いものは、見えない・見せない、というもの。
どちらかというと「見せない」という意識です。
さて・・・
そこで問題になるのが、親鸞聖人のお像です。
まず、基本的にこの親鸞上人の像の存在自体に疑問もあります。
おそらく、親鸞聖人がご覧になったら、お怒りになられると思います。
親鸞上人は、きっと「皆が手を合わせ拝むのは私ではなく阿弥陀仏である」と仰るでしょう。
東本願寺では、本尊として阿弥陀様を置いてはいないのでしょうか?
あ、そうか・・・「御影堂」ですから、中心にあるのは「御影」であるわけですね。
現在工事中の、隣の阿弥陀堂に阿弥陀様はいらっしゃる。
でも阿弥陀堂より、御影堂が大きいし、普段の法要のメインは御影堂だったと思います。
これはおかしいことです。
そもそも「お像」をどう捉えるか?という問題があります。
これ自体、文化財であるのでしょうが、考えてみれば、これは仏様と同義のものとしてみるのでしょうか?
思えば、ウチにも、肌色等に彩色された両大師像がありますが、これって「開眼」してあるのかな?・・・という疑問がわき上がってきました。
それとも、ただのフィギュアなのか?・・・・やっぱり、新しくて「作り物観」ありありでも、礼拝の対象ではありますね。
そこに祖師の像があれば、それが何であれ、礼拝の対象になることは間違いないのですが・・・
仏様が文化財であるやなしやにかかわらず、それが礼拝の対象、信仰の対象になるようなものである場合は、その像そのものが、イコールお祖師様であったり、仏様であったりするという意識と、念じる対象はその向こうにある「姿無きもの」である、という意識もあります。
仏壇の位牌とか、墓石とかもそうだと思います。
話しがずれてしまいました・・・
尊きものを安易に写真に撮るのは良くないことだという意識もあるかと思います。
しかし、例えば、この写真は、真宗大谷派の機関誌「同朋」ですが、ここに写っている親鸞聖人の像をどう考えるか?というようなことを考える人は少ないかと思います。
当たり前のようにここに親鸞聖人の尊きお姿が写っていて、門徒さんは、みんなこれを安易に見ています。
大変な数の親鸞聖人が安易に印刷され配られ、寝転びながらでも見られるのです。
この印刷された「量産型親鸞聖人」をどう捉えるか?という問題ですね。
たとえば、仏像の写真を使った絵はがきというものがあちこちで売られてます。
私は、寺院に行って、当然撮影禁止の仏像を拝んで、気になった仏像は、そのポストカードを買ってくることにしていますが・・・
この100円とか150円とかで売られている「仏様」をどう考えればいいのでしょう?
だいたいが、調査などで持ち出された折りに撮影されたような物が多く、おおよそのものは抜魂されているでしょう。
ですから、これは「美術品」とも考えられます。
しかしながら、紛う方無き「仏様」であるわけで「開眼」をすることができる私らが開眼すれば、これは仏様として、礼拝の対象になる・・・ということになります。・・・よね?
実際にお堂にある仏様を撮影して観光ポスターにして巷に溢れているような「仏様」は、どう捉えればよいのでしょうか?
例えば、博物館にある仏様や、特別展のために、運ばれてきて展示されている「仏様」は、間違いなく抜魂されているでしょうから、単なる美術品である、という見方ができます。
そういう物を見るとき、私らは大変複雑な気持ちになるのです。
実際に、博物館でそういう「仏様」に合掌している人は、私が見た限りおりませんでした。
こういう物の撮影禁止は、当然文化財保護、という名目が第一ですが、一方で「図録を買って欲しい」という意味も若干穿って窺えるわけです。
ま、博物館での展示は、文化財ですし、皆の鑑賞の邪魔ですから、黙ってみなさい、というのは当たりまえではありますが・・・そうも思えてしまう、ということです。
写真を撮って商品を買わない、では、儲からない、ということ。
一般の寺院ではこれもあるんじゃないでしょうか?
これが、コンサートの録音禁止と同じようなものだ、ということですね。
そういうことが見えちゃうと「撮影禁止」の意味合いも変わってきてしまいます。
「撮影禁止」には、その向こうにちょっとお金が見え隠れする「出し惜しみ」的なニュアンスが入っちゃうということですね。
これが「撮影禁止」の意味合いを貶めている面もあると思うのです。
そして、もうひとつ、見せる側の「カメラ嫌い」があると思います。
京都市左京区一乗寺にある曼殊院門跡が「壁や柱にもたれて撮影する観光客が多く、そのために文化財に傷が付いた」という理由で、2008年秋以降撮影禁止になった、というのがコレですね。
とにかく「カメラの国」とも言える日本人は、昔からカメラ好き。
近年は、ケータイ・スマホの普及で、そんなことにカンケイ無く、世界中誰でもいつでもどこでも写真を撮ります。
この「とりあえず何でも自分で写真をとっておく」という習慣が、いたるところで、弊害を及ぼしています。
遊行寺の「一つ火」も撮影禁止でしたが、以前はもうちょっと緩かったと思います。
今でも、闇雲にダメだというものではなく、始まる前や、休憩時間中にはオッケーだったと思います。
わたしも、その時に撮らせていただきました。
「一つ火」の場合は、チョットした灯り、ビデオの赤ランプとかでも法要を台無しにしてしまいます。
そのことを考えて、どんどんいい加減になるカメラのマナーに対して、釘を刺す必要があったのだと思います。
一人の不作法が台無しにしてしまうのですから、気を遣います。
大変キンチョーする「撮影禁止」であります。
参拝・聴聞する方にも、法要を勤める気持にさせてくれます。
みんなで、一緒に法要を作ってゆくという感じがありました。
これは、東本願寺の曖昧な「撮影禁止」とは違うものだと言えるでしょう。
そういえば、智積院の勤行に外人さんの団体さんが来たときには、撮り放題でした。
外人さんには、割と「撮影禁止」という概念はないのかもしれません。
信仰が無いのですから、法要も単なる見せ物と思って良いわけですね。
では、教会はどうなのでしょう?
何度か、正式な教会の結婚式にでましたが、当然ながら撮影禁止ではなかったですね。
イエス様や、マリア様の像も、それは教義の象徴といようなもので、そう言うと仏像と似ているように思いますが、捉え方はまったく違うものなんでしょうね。
イエス様やマリア様の像も、聖書の一節のイメージの絵画があるのと同じで、それ自体に魂が込められ、ただの造形物ではない、という仏様に対する観念とは明らかに違っています。
日本の「秘仏」という概念と、尊きものの姿が無い神道の神様。
本来は見えないもの、見てはイケナイもの、という概念がある日本人。
そういうところが「撮影禁止」の観念の元になっているのだと思います。
真宗もそういうのは「迷信」と言って切り捨てられないのね。
案外、というか、分かり易いくらいにいい加減なものだと思います。
真宗の合理主義からすれば、堂内も親鸞上人も、撮影禁止は解せないものではありませんか?
この記事へのコメント
アルクノ
ブログ内検索して、
「堂内撮影禁止」・・・について考える
を拝読し、此方にきました。
フラッシュ無しで撮影を許可している寺院は沢山あるので、その方達の意見も載せると良かったですね。
例として、分りやすいですが一寺院をやり玉に挙げるのは?です。
暗い堂内で多くの方がフラッシュを使用すると興ざめです。
荘厳な雰囲気がぶち壊しになります。
フラッシュ無しでの撮影許可は当然の事です。
寺院側はフラッシュで仏像が傷むとか、これっポッチも思ってやいません。
発光量の多い優秀なフラッシュを使うとキレイに写ります。
述べられていますが、本音は、
写真なんか撮らないで絵葉書を買って下さいと言ってる訳です。
それでいいような気がします。
金儲け主義の寺院は全面撮影禁止で、やや心の広い寺院はフラッシュ無しで撮影OKと言う事じゃ無いですか?
まず、偶像崇拝そのものが仏教の教えから乖離しています。
寺社仏閣を眺める行為は、美術品鑑賞そのもので、全てそのように眺めています。
その拝観料は、美術品の維持管理と僧侶の生活費の為でしょう。
宗教活動とは何の関係も無いので、課税すべきです。
このような寺院の僧侶や住職の主たる業務は経営管理で、そもそも宗教活動を行っていませんね。
話が逸れてしまいました。
「撮影禁止は経営活動」と考えれば全て合点がいくと思いますが。
三日ボーズ
どこが、というのは、メンドウなので書きません。
まあ、長~い時間かけてお考えください。
アルクノ
貴方のご高説が窺えるものと思っていましたが、残念です。
まあ、時間はあるので、長~い時間かけてお考えください。
答えに窮した場合は無視すればいいでしょう
三日ボーズ
言ってることが稚拙すぎて、相手ができないんじゃ~~。